大幸川とは | 堀川へ接続 | 黒川の支流に | |
桜と楓の川へ | 姿を消して |
大幸川 堀川へ接続 |
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大洪水 巾下は舟で 明和4年(1767)7月12日、大雨により庄内川や天白川など多くの堤防が切れ、尾張各地は大災害に見舞われた。猿投山では大規模な山崩れが発生し、土石流とともに流れ下る激流は猪子石で矢田川の堤防を破壊、さらに大幸川に沿って名古屋城の巾下門まで一気に押し寄せた。付近一帯は海のようになり、巾下あたりでは水深5尺(1.5m)を超え、なかなか水が引かず数日間は舟で人々が行き来する惨状であった。 大幸川を堀川へ 大幸川が流入している笈瀬川では十分な排水ができなかったことから、天明4年(1784)に大幸川を堀川に接続する工事が行われた。現在の猿投橋の所から南西に向けて新しい水路を掘り、堀川へ流れ込むようにしたのである。 |
堀留になっている堀川 『萬治年間名古屋図』 (1658~61) |
大幸川が流れ込む堀川 『安政名古屋図』 (1854~60) |
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この頃、明和の大災害の経験から抜本的な治水対策が行われ、新川の開削や洗堰の築造、庄内川の浚渫と堤防の補強なども行われている。 堀川へ流入するようになり大幸川の排水が改良され、それ以降は沿川が水につかることが無くなった。 切り離された旧大幸川の下流部は、「大幸古川」「古川」と呼ばれ、流量は少ないものの昭和初期まで沿川の用・排水路として永く利用されていた。 |
『東志賀村絵図』 |
黒川の支流に |
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その後、明治10年(1878)に、名古屋と犬山の舟運などを目的に黒川(堀川上流部)が開削された。庄内川の水分橋のたもとで取水し、矢田川の下を伏越(水路トンネル)でくぐった水は、御用水に沿って新たに開削された水路を流れ、今の猿投橋の付近で従来の大幸川に流入させた。そこから朝日橋までは大幸川を改修整備して利用している。 この川は開削した技師の名前から「黒川」と名づけられ、大幸川は黒川へ流入する地点より上流のみ残された。 |
黒川に流れ込む大幸川。左の橋は猿投橋 『城東耕地整理組合第七工区記念帖』 昭和6年(1931) |
「彩紅紅雲」 桜と楓の川へ |
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大正になると、名古屋に近いこの地域は、都市化を目指した耕地整理や土地区画整理が盛んに行われるようになった。入り組んだ耕地を整理統合し、大八車がやっと通れるような狭い里道を自動車が通れるような広く直線的な道路にして利用価値を高める事業である。 このなかで、大幸川も整備され直線的な流れに変えられた。今の猿投橋から杉栄町や東水切町を経て大曽根に向かう道路がその川筋である。将来は清流に花と紅葉が映える名所となるよう、川岸には桜と楓が植えられた。橋も架け替えられ、上飯田と森下駅を結ぶメインストリートにかかる橋は、中国の詩にある「彩紅紅雲」という一節から「彩紅橋」と名づけられた。今は「彩紅橋通」「紅雲町」の町名に名残を残している。 |
植栽された岸辺 昭和3年8月 |
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彩紅橋より北方向 昭和4年8月 |
天満(てんまん)橋渡橋式 昭和4年5月 |
水鶏(くいな)橋 昭和4年8月 『城東耕地整理組合第七工区記念帖』 |
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姿を消して |
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名古屋では明治末期から市街地で下水道の整備が始められ、順次周辺地区に拡張していった。 昭和初期は大変な不況で、失業対策の面からも積極的に整備が進められ、大幸川も暗渠化され「大幸幹線」と呼ばれる下水道になり姿を消した。橋も撤去されて、彩紅橋と天満橋の親柱は下飯田一丁目の六所社西隣にある有終館に保存され、その他のものは六所社入口に建つ掲示板の台座に利用されている。 猿投橋の下流左岸には大雨のときに大幸幹線から黒川へ排水する口があり、かつて大幸川があったことを示している。 平成17年から鍋屋上野浄水場で発生した作業用水(毎秒 0.04㎥)をこの幹線を利用して送水し、堀川浄化の一助にしている。 |
右下のトンネル状のものが大幸雨水幹線 |
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橋の部材で柵 有終館 |
彩光橋 有終館 |
天満橋 有終館 |
六所社掲示板の台座 うばのはし・古径橋・遺址橋など |
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2004/07/22・2021/02/13改訂 |
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