安政2年の水害
川中三郷を 矢田川の濁流が遅い

 安政2年の7月豪雨が続いた。旧暦の7月なので今の8月にあたり、台風による豪雨だろう。藩内各地で大水害が発生した。
 天井川である庄内川と矢田川に囲まれた川中三郷は排水が難しく、矢田川の水位が下がったときに堤防を切って輪中の中の水を排水しようとした。切ったときに運悪く水位が上がり始め、輪中内に濁流が浸入して西へと流れ聖徳寺の南で矢田川堤防を突き破った。
 その年の収穫ができなくなった農民は生活ができない。城下町へ来て物乞いをして、なんとか命をつなぐ有様になった。なかには偽の被災者もいたという。藩主も川中三郷を視察し、大代官からは堤防復旧工事に被災者を雇傭するので物乞いをしないようお触れが出た。

 




◇安政2年の水害
 安政東海・南海地震が起きた翌年の安政2年(1855)、この地方は大水害に見舞われた。庄内川・矢田川・新川・天白川・山崎川など、至る所で堤防が切れて大きな被害が起き、川中三郷も水につかっている。

 『松濤掉筆』には次の主旨の記載がある。
 7月25日から雨が降ったりやんだりし、28日は激しい雨となり、29日の昼頃は盆をひっくり返したような降りとなった。台地の上にある城下町でも道路は川のようになり、大須万松寺あたりは膝下まで水があった。領内では御普請奉行管轄の所だけでも46か所で堤防が切れる大水害が起きた。

◇矢田川堤防破堤
 『松濤掉筆』に、光音寺村の半七から聞いた川中三郷の様子などが記録されている。それによると
 7月29日に堤防で囲まれた輪中である川中三郷の水を排水するため、矢田川の水位が低かったので小僧庵の所で堤防を切って排水し始めた。しばらくすると矢田川の水位が上昇して、堤防を切ったところから矢田川の水が輪中の中へ押し寄せてきた。濁流は輪中の中を西へ流れ、福徳村にある聖徳寺の林にぶつかって南へ流れを変え矢田川堤防へ向かった。
 堤防の所には一段高く土盛りをした上に新しい家が2軒建っていた。そこには近所の低地に住む人たちが箪笥などの家財などが水につからないよう運び込み、見張りのためそれぞれの家に1人ずつ男が番をしていた。濁流はこの家を襲い押し流してしまった。1軒は若い男が番をしていて泳いで逃げ助かった。もう1軒は年寄りで泳げなかったが、家が流れ出すとき柳につかまったので胸まで水につかったものの助かった。

◇藩主が視察・被災民は城下で物貰い
 8月4日夕方に藩主は川中三郷へ視察に赴むき、普請奉行などへ堤防が切れたところの復旧を急ぐよう指示をしている。

 被災し生活に困った人の中には、城下の家々を回って援助を乞う人も居た。中には偽の被災者もいたという。
 『松濤掉筆』の著者である奥村德義が使っている下男宅へ羽織姿の人が来て、「城北で水災に遭った者だが、合力をしてほしい」と頼んだ。肩には銭が入った布袋を担いでいたが1貫文(現在の10数万円)ほど入っているように見受けられた。このため「私はあなたが雇っている召使いと同じぐらいの身分で、あなたほどの服装の人に見合う合力をするほどの力はない」と言ったところ帰って行ったという。

 その後、大代官から「百姓が町人から合力を受けるのは恥辱。今後は復旧工事の人足に出てお金を稼ぐように」と禁止され、それ以降は復旧工事に被災した男女を雇い、人夫賃を日払いにしたとのことである。




 2026/03/06