東海道唯一の海路
七里の渡し
 七里の渡しは熱田宿と桑名宿を結ぶ渡船で、東海道唯一の海路である。距離が七里(28㎞)あるので「七里の渡し」、熱田神宮があるので「宮の渡し」と呼ばれていた。


    七里の渡し   新田開発 航路は南へ   常夜灯
    船番所   船会所   船 役



七里の渡し
◇渡船の数
 渡海のための船は、宝暦元年(1751)に幕府の道中奉行が熱田に来たときには100隻と答えている。
 また江戸時代後期に編集された『東海道宿村大概帳』には、「現在75隻だが、大きな通行があるときは藩に申し出て桑名や近隣の村から借りる」と書かれている。併せて「小渡船42隻がある。これは熱田の海岸が浅いので、干潮時には渡し船は水深の深い沖に停泊し、小渡船で客や荷物を渡し船まで運ぶ」との記載がある。渡し船は20~100石の船が使われた。

◇渡し賃
 渡し賃は天和2年(1682)時点では、人は30文、荷物は1駄(馬1頭分の荷物。135㎏)70文であった。
 だんだん値上がりし、宝永4年(1707)には、人は45文、一駄は109文になっている。天保年間(1830~44)には人は63文、一駄は151文になった。

 渡し場の様子につて『尾張名所図会』は「あしたには七里の渡一番船をあらそひ、船場には商賈の荷物つどひて山のごとく」と、その賑わいと喧噪を記録している。



『名古屋市史』
◇海難事故
 海難事故も起きている。
 琉球使節一行は江戸参府を終えて帰国するため、寛文11年(1671)11月27日、51隻の船に分乗して熱田から桑名へと出発した。
 4~5里(16~20㎞)ほど進んだ頃、にわかに天候が変わって強風が吹き、正使と副使が乗る2隻は多屋村(現:常滑市)と大野村(同上)へ漂着した。下級使節員が乗る5隻は現在の常滑市と鈴鹿市に漂着したが、幸い使節員・護衛の薩摩藩士とも犠牲者は出なかった。
 このことがあったので、正徳4年(1714)からの使節は、美濃街道経由にルートを変えている。



琉球使節 漂着
『小治田之真清水』
 また、天保6年(1835)2月11日、疾風が吹き雨が降る天候のなか、桑名から熱田へ来る船が1艘沈み、4人が亡くなった記録も残っている。
 舟が小さく天気予報もない時代なので、七里の渡しは危険も伴う旅であった。

◇新東海道完成 役割を終える
 明治5年(1872)に新東海道(前ヶ須街道)が完成すると、七里の渡しは東海道の本筋ではなくなり、長年担ってきた役割を終えている。


『尾張国全図』 明治12年




新田開発 航路は南へ
 桑名までの所要時間はその日の風や干満潮により異なるが、4時間ほどだったという。
 江戸時代初期は熱田から桑名まで直線的に行くことができた。この地域はラムサール条約に登録されている藤前干潟があることから解るように、干潟が出来やすい土地で、それを利用して広大な干拓新田が順次開発されていった。それまで舟が通っていた所は陸地に変わり、大きく迂回して桑名を目指す事になり、航路は長くなっていった。

◇ケンペルの通行……舟がソリに
 土砂が堆積した浅い海を行くので、干潮時には航行に困難を来すこともあった。
 長崎のオランダ商館の医師として来日していたケンペルは、元禄4年(1691)と5年(1692)の2回江戸参府をし、合計4回ほど七里の渡しを利用している。

 初めて七里の渡しを利用したのは元禄4年2月6日で、その様子を大略次のように記録している。
 「桑名で昼食を取り雨も上がり良い天気のなか、4隻の船に馬や荷物も載せて12時に出発した。……干潮で海は沼のようになっており、海の底が4~5尺(1.2~1.5m)水面から出ている。そのため、途中で小舟に乗り換えた。船は小さな漁船で2人の船頭は船上で竿を使って船を押し、前後それぞれ2~3人の船頭が船外で引いたり押したりして船を進めた。このような舟行は滑稽だが船はよく進む。その理由は、沼のような海底は表面が柔らかくて平らで底は固い。また船底は平らだからである。……このようにして早い時刻、日没の2時間ほど前に宮に着いた」。これに続いて、他国で陸上を船で行った例を挙げている。

 この日は旧暦の2月なので今の3月にあたり、ちょうど春の大潮の干潮に遭遇したのであろう。雪の上をソリで行くように、露出した干潟の上を船で行くことになったようである。
 なお、ケンペルはその後3回ほど七里の渡しを利用しているが、その時は普通に航行し4時間ほどで到着している。




常夜灯
 夜間の入港に便を図るため、寛永2年(1625)に成瀬正虎(藩の家老・犬山城主)が設置した。
 最初は聖徳太子堂西の海辺(須賀浦)に建設されたとのことなので、今より少し上流の場所である。明かりの維持管理のため、聖徳寺に膏油田として50畝(約5,000坪)を寄付している。

 承応3年(1654)に須賀浦や大瀬子浦の埋め立てが行なわれた。これにより常夜灯は現在地へ移設し、宝生院に膏油田として180歩(594坪)余を寄付している。その後、寛政3年(1791)に火災に見舞われ、成瀬氏が再建した。
 常夜灯は明治24年(1891)の濃尾地震で倒壊して復旧されたが、宝勝院による常夜灯の管理はこの年で終わっている。

 明治後期にも使われており、その頃は電灯に変わっていて晴天時の光の到達距離は3英里と書かれている。英里はマイルなので3.2㎞まで到達するということだ。現在の堀川河口あたりまで届いたようである。
 いつ頃まで使われたかは不明だが、現在の常夜灯は昭和30年(1955)に復興再建されたものである。



おかげまいりで賑わう渡し場。左に常夜灯が見えている
『画誌卯之花笠』




船番所
 江戸時代初期には船番所はなかったが、慶安4年(1651)に由井正雪の残党が七里の渡しで京阪方面へ逃亡したため、翌承応元年(1652)に設置された。

 勤務するのは御船手役所の川方手代2名、熱田奉行手代2名、足軽8名、三ヶ浦(大瀬子浦・須賀浦・東脇浦)の船庄屋である。昼夜にわたり出入の船を監視し、旅人の姓名を記録し、不審な旅人や荷物は出航を止めた。
 渡し船が出航できるのは卯(午前6時)から酉(午後6時)の間で、夜間の出港は将軍の名代や上使・大阪城の勤番衆など以外は禁止されていた。

 関所のような役割を果たしていたが、明治元年(1868)に廃止されている。

『東海道分間延絵図』




船会所
 船会所とは、七里の渡しで一般の宿場の問屋業務(荷物の逓送・馬や人夫の手配など)を担当するところである。

 熱田宿に当初は問屋場は1か所しかなく、渡し場におかれていた。だんだんと美濃街道や佐屋街道の利用が増えてきたので、寛文年間(1661~73)に陸送を担当する問屋場を伝馬町に設けて、陸運と水運を分離している。問屋には幕府から7石の問屋給米が支給されたが、分離に伴いこれも折半している。

 業務を行う船年寄は大瀬子浦から3人、須賀浦から2人、東脇浦から1人、合計6人がおかれていた。帳付や肝煎を指揮して、渡し船を管理し、乗客の氏名を記録し、乗せる商品の運上銭の徴収を行った。




船 役
 東海道の各宿場には100人の人足と100匹の馬を備え付けることが幕府により義務付けられていた。
同じように七里の渡しには、船を運航するため、幕府から360人の船役を置くことが義務付けられていた。

 船役の者は三ヶ浦(大瀬子・須賀・東脇)に住み、それぞれ平田船(底の平らな喫水の浅い船で、主に川船として使用)を所有して七里の渡しを行い、船賃を得て生活していた。

 船役の者は七里の渡しを独占する特権の代償として、御朱印持参者や藩の公用による渡海者などには無償で船を運航する義務があった。しかし無償での運航が増え、船役達にとり大きな負担となってきた。そのため船年寄達の協議により、一般乗船客から得た船賃の3分の1を上米銭として船会所で預かって無償運航の費用に充て、毎年精算して残金は船役に割り戻すことにした。
 享保9年(1724)になると上米銭の管理を御船奉行が行うように変わり、残金は藩が取り上げることになった。

 困窮する船役の生活を保護するため、御船奉行の建議により船方新田の開発が行なわれた。
 延宝3年(1675)に御船蔵の南の土地10町(9.9㏊)を船役に下付して開墾させ、無年貢地にして生活の足しにさせたのである。しかし弘化3年(1846)になると、新田を藩が1,200両で買い上げてその代価は藩が預かり、利息の96両(後に75両)だけ毎年払うことになった。耕地は年貢地に変わり、年貢は利息より高かったので、船役達は昔に戻すよう嘆願したが実現しなかった。


『熱田三ヶ浦町並之図』




 2022/02/22