亡き息子への思い 裁断橋の擬宝珠
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◇名文として知られる 擬宝珠の文字
擬宝珠に刻まれた架橋の由来は、名文として知られている。
「てんしやう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ちん、ほりをきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見さるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける成、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんしやうふつし給へ、いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまて、此かきつけを見る人は念仏申給へや、卅三年のくやう也」
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天正18年(1590)に秀吉が小田原征伐を行った。
その時に18才だった堀尾金助も出征したが死亡し帰ってこなかった。わが子を亡くした母が三十三回忌(元和8年、1622)を迎えるにあたり息子の成仏を願ってこの橋の架け替えをしたのである。文中の「いつかんせいしゆん」(逸岩世俊)は金助の法名である。
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◇堀尾氏は松江藩の創始者
堀尾氏は戦国時代、現在の大口町を根拠地とする豪族であった。
金助は堀尾吉晴の子、あるいは従兄弟とも言われるが確かなことは解らない。小田原に出陣して亡くなったが、資料により戦死・病死と分かれている。
堀尾吉晴の息子忠氏は、後に出雲・隠岐の24万石を領有する松江藩の初代藩主となったが若くして亡くなった。孫の忠晴が5才で跡を継いだので、隠居していた吉晴が松江城築城など藩政の基礎を築いている。なお、忠晴が寛永10年(1633)に亡くなると、子がなかったので無嗣改易となり、松江藩は京極家、その後は松平家が統治している。
なお、京都の妙心寺塔頭の春光院は、堀尾吉晴が金助の菩提を弔うため金助が亡くなった天正18年(1590)に創建した寺である。当初は金助の法名から俊巖院の寺号であったが、堀尾家が断絶した後、親戚関係の伊勢亀山藩石川家が引き継ぎ春光院に改号したという。
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