セメント工場 創業
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◇田村半助 中島にセメント工場
明治20年(1887)11月26日、そろそろ肌寒さを感じる気候のなか、紋付・羽織袴やハイカラな背広にステッキを持った紳士たちが続々と集まってきた。今日は名古屋に初めてできたセメント工場、京岐商会(資料によっては商岐商会)の仮開業式だ。
明治になり西洋から新しい技術が続々と入ってきた。しゃれたレンガ造りの建物は文明開化の象徴だ。新しい建築や土木工事にはセメントが欠かせない。各地にセメント会社が造られはじめた。明治14年(1881)に山口県で後の小野田セメントが、16年(1883)には東京で後の浅野セメントが事業を始めている。
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名古屋にセメント工場を造ろうとする人が現れた。東京の田村半助である。美濃国赤坂(現:大垣市)付近の石灰岩を使って名古屋でセメントを作ることを思いつき、堀川の中島に焼窯4基などの設備を設け、お披露目の後、20年(1887)12月から操業を始めた。当時のセメントは樽に詰めて出荷されたが、その製造を請け負ったのは、後に日本でのベニヤ産業生みの親となった浅野吉次郎である。
操業を始めたものの、規模が小さく借財がかさむばかりだ。操業してまもなく、半助は当時初代の内閣総理大臣をしていた伊藤博文に泣きつき、博文は横浜の高島嘉右衛門に買取を打診した。高島は外国公館の建築請負で大きな富を手にし、横浜でガス事業や埋立工事なども手がけた豪商だ。博文とは親交があり、後に娘のたま子が博文の養嗣子博邦の妻になっている。もっとも、今では「高島易断」で有名である。高島は他の出資者とともに明治21年(1888)4月に工場を買い取り、事業を承継した。
◇愛知セメント 設立
明治23年(1890)5月には「愛知セメント株式会社」を設立。資本金が51万円で、年間32万5千樽を製造して130万円を売り上げる大企業に成長した。
この年に刊行された『尾張名所図絵』には、「我邦に於てセメントを製造する処は唯僅に山口セメント会社と愛知セメント会社とに過ぎず。而して今此会社の如きは関東関西各地方の諸工場に使用するセメント需要の供給をなす。其業務の多忙にして且つ其盛んなること得て之を知る可き也」とある。
明治24年(1891)の濃尾地震では、機械室と煙突が崩壊、焼成釜はすべて破壊。職工が1人即死し、負傷者は未詳となっている(『濃尾震誌』)が、その後操業を再開している。
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『名古屋及熱田市街実測図』
明治33年
『尾張名所図絵』 明治23年
『濃尾大震災写真帳』
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◇公害問題発生
文明開化を象徴するような工場だが、大変な問題が発生した。公害である。
セメントは、石灰石と粘土を粉砕してごく細かな粒子にし、1000度以上の高温で焼いて造られる。粉砕機からは砕かれた微粉末が大量に漏れ出し、煙突からは煤煙が降り注ぐ。
『扶桑』新聞はその様子を「土塵の屋瓦庭上に堆積し、街上の光景霜の朝におけるがごとく、鶏犬去り人影を絶ち、その荒状足尾銅山の鉱毒もただならず、ただただ酸鼻の外なきなり」と報道している。粉塵が屋根や庭に積もって真っ白になり霜が降りたような風景になっている。鶏も犬も人も歩いておらず、中島近くの地区は足尾銅山の鉱毒被害地と同様に酸鼻を極める風景に変わったのである。
明治30年(1897)8月になると熱田町民は工場移転の懇願書を町長に提出し、町長などと会社の間で交渉が始まった。同月28日の会社回答は、「移転はせず防鎮器ないしアメリカ製塵塔吸収器を備えつける」という内容であった。一方、会社は事業拡張のため、第二工場を精進川(現:新堀川)の東(現:伝馬町水処理センターなど)に建設した。
この問題は、1年半後に意外な展開で終わった。
32年(1899)2月4日、会社の役員会が開かれた。前年の不況で2万樽以上の在庫を抱え、今後の経営方針を検討したが、大変紛糾する会議となった。中島の第一工場を閉鎖し生産縮小を主張する役員と、それに反対する社長が対立し、結局役員側の意見がとおり、12年間操業して大きな公害を引き起こした中島の工場は3月1日に閉鎖された。
しゃにむに進む名古屋の工業都市化の光の後ろには、暗い影も存在していたのである。
◇その後の愛知セメント
明治43年(1910)の矢田川伏越の人造石による改築では、愛知セメント㈱から1,076樽余のセメントを4,199円余で購入して伏越の底に使っている。
名古屋では、その後大正7年(1918)に名古屋セメント㈱が設立され、11年(1922)には名古屋セメントを吸収して豊国セメント㈱(現:三菱マテリアル㈱)が設立されている。
愛知セメント㈱は、大正14年(1925)に小野田セメント㈱(現:太平洋セメント)に合併されて愛知支社となり、その名は忘れられてしまった。
◇田村半助と伊藤博文
創業者の田村半助は博文とどんな関係だったのだろうか。
博文は稀代の女好きとして有名だ。至る所で芸者を揚げたことはよく知られているが、妾もいた。
明治のジャーナリスト黒岩涙香が『萬朝報』に連載した『弊風一斑 蓄妾の実例』という記事が本になっている。
それによると、田村半助という伊藤邸に出入りする土木請負業者がおり、長女喜勢子が博文の妾になっていたとのことだ。その後26年に喜勢子が亡くなると、二女つね子が妾に入りやはり19歳の若さで亡くなり、博文はさらにその妹の雪子を妾に望んだが、2人が早世しただけに半助も雪子もさすがに渋っていると書かれている。
同姓同名の人が博文の周りに2人いた可能性は低く、妾の父親がこのセメント工場を設立したのではなかろうか。
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