名古屋初 鉄道輸送と水運の連結
熱田運河(姥子川運河) 開削

 今では面影もないが、明治後期に熱田駅と熱田港を結ぶ舟運路として熱田運河が開削された。一時期は大きな役割を果たしたが、臨港線の開通などにより役割を終え昭和初期に姿を消した。




 明治29年(1896)に、それまで東海道線と旧東海道が交差する南にあった熱田駅が現在の場所へ移転し、輸送体制が拡充された。

 この年、愛知県は15年継続事業として熱田港(現:名古屋港)の築港事業を開始した。名古屋市も中央線建設が始まろうとする頃で、港と千種駅を結ぶ運河の建設をもくろんでいた。
 このような機運のなか、新熱田駅は内陸に入った場所で熱田港と離れているため、移転した翌30年に精進川から熱田駅までの運河が開削された。これが熱田運河(姥子川運河)である。

 運河には二つの吊り橋が架けられ両岸を結んでいた。
 42年に上流側の吊り橋が木橋に架け替えられ、御田橋と名付けられた。橋は長さが8間5尺8寸(16.3m)、幅が2間5尺8八寸(5.4m)と記録されている。現在、名鉄神宮前駅の北に架かる御田跨線橋のあたりである。
 下流側の吊り橋は、39年に吊り橋から木橋に改築され「元吊り橋」と呼ばれていたが、さらに45年に改築して丸山橋に改名されている。長さが12間半(22.8m)幅が2間(3.6m)であった。現在の秋葉アンダーパス付近である。

 『名古屋南部史』(刊:昭和27年)には、次のように書かれている。
 「精進川(新堀川)開鑿當時は分岐線(熱田運河、姥子川運河)も海陸連絡上極めて重要なる施設として利用されたが、名古屋港驛開設せられ、その後白鳥驛が開設せられたるため、石炭・木材・肥料等の大量貨物は漸次この兩驛に移り、熱田驛を利用するものが減少するに至つた。従って驛前の運河も昔日の價値を失い殆んど無用となつたので、熱田河岸堤塘築造工事の際と愛知電気鐵道の線路延長のため埋立られ……」

 当初は活用された運河だが、名古屋港駅と白鳥駅ができたことで運河を利用する貨物が減ってゆき、昭和初期から徐々に埋め立てられた。
 昭和2年10月には、熱田駅での取扱貨物が増えて手狭になったので、運河の一部を埋め立てて長さ300㌳(91.4m)の貨物積卸場が設けられた。昭和6年の地図を見ると、明治40年の地図に比べて御田橋より上流部が狭く描かれているのは、貨物積卸場により狭められた結果であろう。
 12年の地図では丸山橋より上流は埋め立てられて下流部だけが残っており、熱田駅に近いところに「神宮前駅移転地」と書かれ、運河全線に「移転線路敷」の文字が振られている。
 昭和31年の地図では運河は姿を消し、跡地に名鉄の線路が敷かれている。


『名古屋及熱田市街実測図』
 明治33年


『名古屋市及附近図』 明治40年


『名古屋市街全図』 昭和6年


『名古屋市街全図』 昭和12年


1/10000 昭和31年

『スーパーマップル』 現在




 2024/06/19