『尾張名所図会』 |
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熱田湊は尾張で一番大きな港、名古屋の海の玄関口、東海道唯一の海路を行く七里の渡しがある場所、さらに堀川の舟運と全国各地を結ぶ海運が連結する場所でもある。 たくさんの廻船が寄港し多くの物資の積み下ろしをしたのが熱田湊である。 |
江戸時代の熱田湊 | 明治になり大改修 | 熱田港の輸送 | |
統計にも載らなくなった熱田港 |
◇愛知県による航路の浚渫……明治13~29年 その後は愛知県が浚渫を続けている。県は、200トン前後の船が入港できることを目標にして、13年(1880)から29年(1896)まで毎年1,500〜3,000円の予算で熱田港から保田沖(現在の名古屋港付近)の区間で浚渫工事を続けた。 |
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16年(1883)に名古屋区長(現:市長)の吉田禄在が県令に出した上申書には、次のように書かれている。 「横浜と四日市との間は、其物貨僅かに1昼夜にして達すると雖、四日市よリ我名古屋へは、其早きは1週間、其遅きは10日乃至半月余の日数を経るにあらざれば到達せざるを常とす」 小型船による中継輸送の問題が年々大きくなっていった。 県は浚渫を進めたが、なかなか大型船が入れるようにはならなかった。20年に100トン並びに甲板の最大長100尺(30m)以上の汽船の出入りを禁止している。100トンの船は和船の石数では千石船ということになり、江戸時代の熱田湊に比べれば大きく改善されてはいるが、船の大型化はそれ以上に進んでいた。 |
波止場に蒸気船が接岸 『尾陽商工便覧』 明治21年 |
◇熱田湊の風景(名古屋港完成後) | |||
絵葉書 明治42年以前(大瀬子橋がない) |
絵葉書 明治42年以降(大瀬子橋がある) |
絵葉書 明治42年以降 右の建物は大阪税関名古屋支所 |
2022/02/25 |
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