名古屋の歴史はここから
鶴舞公園
 鶴舞公園は名古屋市が整備した最初の公園だ。
 広い公園がほかにはない時代、ここで博覧会が開かれ、電車焼き討ちや米騒動の時には市民が集まり、図書館や動物園もここで誕生した。名古屋の歴史の表舞台となった公園である。

   公園の建設決定…明治39年  関西府県連合共進会…明治43年  公園の一部 県病院に…明治43年
   中央線全通記念式…明治44年  電車焼き討ち事件…大正3年  動物園…大正7年~昭和12年
 米騒動…大正7年  八幡山古墳も公園に…大正8年  メーデー開催…大正12年
 市立図書館…大正12年  加藤高明銅像…昭和3年  普選記念壇…昭和3年
 御大典奉祝名古屋博覧会…昭和3年  名古屋市公会堂…昭和5年  中央線鶴舞駅…昭和12年



公園の建設決定……明治39年(1906)
 鶴舞公園は名古屋市が整備した最初の公園である。明治39年(1906)12月に御器所村に公園設置が決まった。

 建設予定地のほとんどは田圃だったが、ちょうどその頃は新堀川の開削事業が行われており、その掘削土で40年(1907)8月に公園予定地の盛り土を始めた。
 ちなみに新堀川開削で掘削土は約12万5000坪(坪=立て坪=6尺立方)発生し、熱田の兵器製造所盛り土に4万3000坪、鶴舞公園盛り土に約4万坪、築堤や道路の築造に約2万5000坪、残りを公園道路(共進会場への道路)などに使用している。

 その後、関西府県連合共進会が開催され、終了後に公園としての設備を整備していった。
 設計は林学の権威で日比谷公園などの設計をした本多静六や、名古屋高等工業学校(現:名古屋工業大学)の建築科教授である鈴木禎次(禎二)などが担当している。




第10回関西府県連合共進会 開催……明治43年(1910)

 公園の整備を進めているなか、明治41年(1908)2月に名古屋で関西府県連合共進会(博覧会)を43年(1910)に開催することが決まり、公園全域をその会場に充てる事となった。

 翌3月になると再度盛り土事業が始まり、4月には来客の便を図る道路整備も始まっている。11月には道路整備が終わり、公園の名が鶴舞公園に決まった。42年(1909)に公園の区域は御器所村から名古屋市へ編入されている。

 明治43年(1910)3月16日から6月13日までの90日間、共進会が開催された。

『名古屋市実測図』 明治43年
 主催は愛知県で、名古屋市も43年(1910)に開府三百年記念祭を計画していたので協力した。
 共進会の名前は「関西府県」だが、出展者は広範囲にわたっており、九州と東北の6県、および北海道を除く日本全国の博覧会であった。

 開催に向けて「開府三百年記念会」が有志によりつくられ、名古屋市の補助金と有志の拠出金により、正門前に噴水塔、入ったところに奏楽堂(共に鈴木禎次設計)、その外に貴賓館や演舞場を建設した。現在、噴水塔と奏楽堂は景観法による景観重要建造物に指定されている。
 会期中には皇太子(後の大正天皇)や韓国皇太子などの巡覧もあり、入場者は260万人という盛況であった。



博覧会の遺構 奏楽堂


博覧会の遺構 噴水塔



公園の一部を県病院と医学校に……明治43年(1910)
 共進会が終ってしばらく経った明治43年(1910)10月になると、県が公園の一部を愛知県病院と医学校(現:名古屋大学医学部と病院)の建設の為に売却するよう求めたが市議会はこれに反対。

 県は土地の収用を告示したのでやむを得ず11月に市議会は応諾し、公園の区域は縮小された。







愛知県病院  『絵葉書』


中央線全通記念式……明治44年(1911)

 明治44年(1911)5月には中央線全通記念式が鶴舞公園で開催された。逓信大臣を始めとする3,000人が出席する大イベントである。
 公園正門前に大緑門を建て36の模擬店が並び、記念橋や納屋橋には緑葉の飾りを付けるなど、全市がお祭りムードで盛り上がった。





電車焼き討ち事件……大正3年(1914)

 大正3年(1914)9月6日、路面電車を運行していた名古屋電気鉄道の糾弾市民大会が鶴舞公園の広場で開催された

 名古屋の路面電車は明治31年(1898)に笹島から久屋町まで開通したのをかわぎりに順次延伸され、この頃は総延長が42.5㎞にもなっていた。
 便は良くなったものの乗車料金は区間制の為、長距離だと非常に高額になり人々に不満が溜まっていた。 9月6日に会社糾弾市民大会が開催され、1万数千人が参加し、終了後に群衆は名古屋電気鉄道に向かい、その後3日間にわたり電車や駅など襲い破壊し焼失させ、軍隊が出て鎮圧した。





焼き討ちされた柳橋駅ホーム 『名古屋鉄道社史』


動物園……大正7年(1918)~昭和12年(1937)

 鶴舞図書館からグランドの南にかけて、かつて動物園があった。

 この動物園には、民間動物園の前身がある。明治23年(1890)に、今泉七五郎が前津町(後に大須門前町へ移転)で収集した動物を展示する「浪越教育動植物園」を開業し、通称「今泉動物園」と呼ばれていた。

 ここの動物、虎・熊・鰐など481点が市に寄付され、大正7年(1918)4月1日に「鶴舞公園付属動物園」〔昭和4年(1929):市立名古屋動物園に改称〕が開業した。
 細長い3,650坪(1.2㏊)ほどの狭い敷地であったが、動物や施設が徐々に充実し250種800点を展示した。また、動物祭や世界動物探検博覧会などのイベントも行なわれ関心を集めた。入場者は、初年度は54万7000人余で、年により増減があるものの昭和9年(1934)から11年(1936)は毎年63万人を超える盛況であった。

 手狭な施設の移転が必要となり、市は昭和7年(1932)、現在の東山公園の地に広大な動・植物園をつくる構想を発表し、10年(1935)に東山公園が開園した。
 翌年から動物園の施設を整備し、鶴舞から動物が移送されて12年(1937)3月24日に東山動物園が開園し、鶴舞公園の動物園は閉園になった。




『大名古屋市街全図』 大正11年



唯一残る 動物園の遺構 通用門


米騒動……大正7年(1918)
 大正7年(1918)8月、米価の高騰に不満を持つ市民が、多いときには70,000人も鶴舞公園に集まり、都心に向かう途中で米屋などを襲撃し、軍隊が出て鎮圧した。

 シベリア出兵を機に米価が高騰し人々は困窮していた。そんななか7月23日に富山県魚津市で米の積み出しをしようとしていた船を漁師の女将さんたちが阻止した。新聞で報道され、全国に米騒動が広がっていった。

 名古屋では8月9日の夜、鶴舞公園の噴水周辺に3~400人が集まり政府や米屋への不満を話していた。
 翌10日になると、米価に関する市民大会が鶴舞公園で開催されるという噂が広まり、夜には10,000人もの人が奏楽堂周辺に集まってきた。その内数千人が米穀取引所のある米屋町(現:泥江町交差点北西)に向かい、途中で知事公舎などに投石したが米屋町の手前で警察署長の説得により解散した。

 11日には70,000人もが公園に集まり、その一部が米屋町へ向かった。米屋町の手前では警官隊が非常線を張っており、群衆は瓦礫を投げつけ警官はサーベルを抜いて立ち向かう事態になった。

 12日には公園に4~50,000人が集まり、米屋などを襲撃しながら米屋町へ向かった。この日は軍隊が出動し一進一退の攻防が繰り広げられたが、深夜になると沈静化した。

 13日は、集合場所になっていた奏楽堂周辺を憲兵などが取り巻いて近づけないようにしたが、20,000人の群衆が公園に集まり10,000人が市街に向い米屋や交番などを襲撃した。

 14日になると全国で米騒動が広がっているので、内務大臣は新聞へ騒動に関する記事の掲載を差し止めた。このため詳細な記録は残っていないが、16日まではある程度の人数が公園に集まったという。

※人数等は、当時の『新愛知』(中日新聞の前身の一つ)による。


12日 鶴舞公園の群衆 『新愛知』



13日 上:栄町、いとう呉服店前の群衆
    下:警官と騎馬憲兵で固めた警戒線
『新愛知』



八幡山古墳 公園に編入……大正8年(1919)
 八幡山古墳は直径82m、高さ10mの円墳で、幅10m以上の周濠があり、円墳としては東海地方で最大である。5世紀前半にこの地方を支配していた豪族の墓とみられている。
 大正8年(1919)に鶴舞公園に編入され昭和6年(1931)に国の史跡に指定された。

 江戸時代の『御器所村絵図』には「八幡山 御除地」と書かれ、鳥居のマークがある。八幡社を祀る神社があった事から八幡山と呼ばれていた。

 このあたりは御器所台地の西端で、この他に名古屋工業大学校内に直径36mの一本松古墳(現況は円墳状だが前方後円墳とも言われている)もある。









『御器所村絵図』


メーデーの開催……大正12年(1923)

 東京では大正9年(1920)に上野公園で最初のメーデーが開かれたが、名古屋では翌10年(1921)に2人の活動家が鶴舞公園正門で『労働運動』という機関紙を売ったものの、尾行の警官により退去させられ不発であった。

 その2年後の大正12年(1923)5月1日、名古屋で初めてのメーデーが鶴舞公園で開催された。
 集会後、500名余の労働組合員が300名の警官に囲まれて、鶴舞公園から上前津・栄を通り那古野神社までデモ行進をした。





名古屋市立図書館 開館……大正12年(1923)

 名古屋市立図書館は大正天皇の御大典記念事業として建築され、大正12年(1923)10月1日に開館した。

 市立の図書館ができた事で、それ以前、明治20年(1887)に名古屋教育会が鶴舞公園の竜ヶ池に設置した書籍室(後に名古屋図書館に改称)があったが、蔵書を市立図書館に譲渡し大正12年(1923)12月に閉館している。
 また、明治期に中区大津通一丁目で私立の図書新聞雑誌縦覧所(後に名古屋通俗図書館に改称)が開館していたが、昭和6年(1931)に閉館した。

 市立図書館の蔵書は、開館した年は48,000冊余であったが、年々増加し、昭和12年(1937)には144,000冊余になっており、平成29年(2017)時点では1,300,000冊(市の図書館全体では3,270,000冊)を所蔵している。

 昭和20年(1945)3月19日の空襲で全焼したが、翌年5月にバラック建てで再開し、27年(1952)に鶴舞図書館に改称、34年(1959)に新館が完成し、39年(1964)に鶴舞中央図書館に再改称している。現在の建物は昭和59年(1984)に改築したものである。




加藤高明銅像……昭和3年(1928)

 加藤高明は愛知県出身で初めて内閣総理大臣になった人物である。

 万延元年(1860)1月に佐屋代官所で手代(一説には足軽)を務めていた、尾張藩士服部重文の二男として誕生。加藤は養子先の姓である。
 その後一家は名古屋へ転居し、父親は巡査になっている。
 高明は洋学校(現:旭丘高校)を卒業後上京し、明治14年(1881)に東京大学法学部を卒業して三菱に入社。20年(1887)に官界入りして駐英公使などを歴任、33年(1900)に外務大臣となった。政界で活躍し外務大臣を前後4回、男爵(没後:伯爵)に列せられ、衆議院・貴族院議員を務めた。
 大正13年(1924)6月に総理大臣に就任、普通選挙法を成立させたが併せて治安維持法も制定している。在任中の15年(1926)1月に亡くなった。

 没後の昭和3年(1928)6月に有志により銅像が建てられた。
 像は朝倉文夫が製作し、高さは16尺(4.8m)あり台座も含めると42尺(12.6m)という巨大なものであった。太平洋戦争中の昭和19年(1944)に金属供出で失われ、台座だけが現存している。





かつての銅像 『絵葉書』


今も残る台座


普選記念壇……昭和3年(1928)

 普選記念壇は普通選挙制度が施行された事を記念し、昭和3年(1928)に名古屋新聞社(現:中日新聞社)が中京新報社から改称して20年記念にあたって建設し、市に寄付した。
 なお、この年2月に初めて普通選挙が実施され、併せて3月には普通選挙法と同時に成立した治安維持法違反で共産党関係者1,568人が検挙されている。

 壇の正面に大きく五箇条の御誓文がレリーフされ、左手にその英訳、右手には建設の趣旨が表示されている。
 裏面には「顧問 文学博士坪内雄蔵 設計 工学博士佐藤功一」とある。坪内雄蔵は名古屋で少年時代を過ごし、早稲田大学の教授などを務めると共に近代文学や演劇を育んだ坪内逍遥の本名である。佐藤功一は早稲田大学や日本女子大学の教授等を歴任し、大隈講堂や日比谷公会堂などの設計をした建築家である。



『絵葉書』 戦前


現況 建設時とほとんど変わっていない



御大典奉祝名古屋博覧会……昭和3年(1928)
 昭和3年(1928)9月15日から11月30日までの77日間、御大典奉祝名古屋博覧会が開かれた。
 昭和天皇の即位礼が、昭和3年(1928)11月10日に京都で行われる事になり、それに合わせて奉祝の博覧会を開催するというのが建前だが、一方では不況に苦しむ経済の回復を図るのが主目的であった。

 第一次世界大戦中の日本は戦時バブルで好況だったが、大正7年(1918)に終戦を迎えヨーロッパ経済が復興し始めると戦後不況に陥った。なかなか回復しないなか、12年(1923)には関東大震災で首都東京が壊滅的な打撃を受け、昭和2年(1927)には金融恐慌が起きて取り付け騒ぎとなり、台湾銀行の休業や、総合商社の鈴木商店が倒産するなど暗い空気に包まれていた。このような時代背景のなか、産業振興を図ったのである。

 主催は名古屋勧業協会で、名古屋市と名古屋商工会議所が後援をし、国や他府県の応援もあった。37府県から出品があり、本館・機械館・農林館・電気館のほか、朝鮮・台湾・北海道・関東庁は特設館を設けている。

 会期中に1,940,000人の入場者があり、盛況のもと終了した。




機上より見たる 博覧会場  『絵葉書』


正門 『絵葉書』


名古屋市公会堂……昭和5年(1930)

 公会堂は昭和天皇のご成婚(大正13年1月)記念事業として建てられ、昭和5年(1930)9月30日に竣工した。

 鉄筋コンクリート造りで地上4階地下1階建で、その頃流行した近世復興式という、古典的様式に近代の新しい様式を加味したデザインになっている。
 戦時中は防空部隊の司令部が置かれ、戦後は進駐軍の娯楽・厚生施設になっていたが、昭和31年(1956)に市の管理に戻された。

 何度か改修され、現在は1,562席の大ホールを始めとして最大780人収容の4階ホール、7つの集会室などを備え、各種の大会や会合、コンサートなどのイベントに使われ、登録有形文化財、景観法による景観重要建造物に指定されている。




完成当時の姿 『絵葉書』


中央線鶴舞駅……昭和12年(1937)

 臨時駅としては、昭和3年(1928)9月6日から御大典奉祝名古屋博覧会開催に合わせて設置されたが、終了と共に12月1日に廃止された。

 正式の駅としては、昭和12年(1937)4月21日に開業している。

 中央線の名古屋駅と千種駅は明治33年(1900)7月の名古屋~多治見開通とともに開業している。また大曽根駅は44年(1911)4月開業なので、鶴舞駅は相当遅れて設置された。

鶴舞公園正門を行く汽車 『絵葉書』 時期不明

 駅ができたのは、公園一帯の発展を図る為に昭和10年(1935)に設立された鶴園(ママ)振興会が、駅の土地と基金を鉄道省に寄付したことによる。
 なお、金山駅はさらに遅い昭和37年(1962)1月、新守山駅は39年(1964)4月の開業である。

 なお、地下鉄鶴舞駅は昭和52年(1977)3月18日に、鶴舞線の伏見~八事の開通とともに開業している。




 2024/06/12