八幡山古墳 公園に編入……大正8年(1919)
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八幡山古墳は直径82m、高さ10mの円墳で、幅10m以上の周濠があり、円墳としては東海地方で最大である。5世紀前半にこの地方を支配していた豪族の墓とみられている。
大正8年(1919)に鶴舞公園に編入され昭和6年(1931)に国の史跡に指定された。
江戸時代の『御器所村絵図』には「八幡山 御除地」と書かれ、鳥居のマークがある。八幡社を祀る神社があった事から八幡山と呼ばれていた。
このあたりは御器所台地の西端で、この他に名古屋工業大学校内に直径36mの一本松古墳(現況は円墳状だが前方後円墳とも言われている)もある。
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『御器所村絵図』
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メーデーの開催……大正12年(1923)
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東京では大正9年(1920)に上野公園で最初のメーデーが開かれたが、名古屋では翌10年(1921)に2人の活動家が鶴舞公園正門で『労働運動』という機関紙を売ったものの、尾行の警官により退去させられ不発であった。
その2年後の大正12年(1923)5月1日、名古屋で初めてのメーデーが鶴舞公園で開催された。
集会後、500名余の労働組合員が300名の警官に囲まれて、鶴舞公園から上前津・栄を通り那古野神社までデモ行進をした。
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名古屋市立図書館 開館……大正12年(1923)
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名古屋市立図書館は大正天皇の御大典記念事業として建築され、大正12年(1923)10月1日に開館した。
市立の図書館ができた事で、それ以前、明治20年(1887)に名古屋教育会が鶴舞公園の竜ヶ池に設置した書籍室(後に名古屋図書館に改称)があったが、蔵書を市立図書館に譲渡し大正12年(1923)12月に閉館している。
また、明治期に中区大津通一丁目で私立の図書新聞雑誌縦覧所(後に名古屋通俗図書館に改称)が開館していたが、昭和6年(1931)に閉館した。
市立図書館の蔵書は、開館した年は48,000冊余であったが、年々増加し、昭和12年(1937)には144,000冊余になっており、平成29年(2017)時点では1,300,000冊(市の図書館全体では3,270,000冊)を所蔵している。
昭和20年(1945)3月19日の空襲で全焼したが、翌年5月にバラック建てで再開し、27年(1952)に鶴舞図書館に改称、34年(1959)に新館が完成し、39年(1964)に鶴舞中央図書館に再改称している。現在の建物は昭和59年(1984)に改築したものである。
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加藤高明銅像……昭和3年(1928)
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加藤高明は愛知県出身で初めて内閣総理大臣になった人物である。
万延元年(1860)1月に佐屋代官所で手代(一説には足軽)を務めていた、尾張藩士服部重文の二男として誕生。加藤は養子先の姓である。
その後一家は名古屋へ転居し、父親は巡査になっている。
高明は洋学校(現:旭丘高校)を卒業後上京し、明治14年(1881)に東京大学法学部を卒業して三菱に入社。20年(1887)に官界入りして駐英公使などを歴任、33年(1900)に外務大臣となった。政界で活躍し外務大臣を前後4回、男爵(没後:伯爵)に列せられ、衆議院・貴族院議員を務めた。
大正13年(1924)6月に総理大臣に就任、普通選挙法を成立させたが併せて治安維持法も制定している。在任中の15年(1926)1月に亡くなった。
没後の昭和3年(1928)6月に有志により銅像が建てられた。
像は朝倉文夫が製作し、高さは16尺(4.8m)あり台座も含めると42尺(12.6m)という巨大なものであった。太平洋戦争中の昭和19年(1944)に金属供出で失われ、台座だけが現存している。
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かつての銅像 『絵葉書』
今も残る台座
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普選記念壇……昭和3年(1928)
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普選記念壇は普通選挙制度が施行された事を記念し、昭和3年(1928)に名古屋新聞社(現:中日新聞社)が中京新報社から改称して20年記念にあたって建設し、市に寄付した。
なお、この年2月に初めて普通選挙が実施され、併せて3月には普通選挙法と同時に成立した治安維持法違反で共産党関係者1,568人が検挙されている。
壇の正面に大きく五箇条の御誓文がレリーフされ、左手にその英訳、右手には建設の趣旨が表示されている。
裏面には「顧問 文学博士坪内雄蔵 設計 工学博士佐藤功一」とある。坪内雄蔵は名古屋で少年時代を過ごし、早稲田大学の教授などを務めると共に近代文学や演劇を育んだ坪内逍遥の本名である。佐藤功一は早稲田大学や日本女子大学の教授等を歴任し、大隈講堂や日比谷公会堂などの設計をした建築家である。
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『絵葉書』 戦前
現況 建設時とほとんど変わっていない
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