江戸時代初期に開墾
『春日井郡』
味鋺原新田
 現在の味美は、元は味鋺原新田と呼ばれた。開墾されたのは江戸時代の初期である。それまでは原野であった。
 今では名古屋の近郊に原野があったとは想像もできないが、かつての主要産業は農業だ。作物を作るには水が必要だが、それが手に入らない土地は利用価値がなく原野のまま放置されていた。このあたりは丘陵地で水利を得ることができる川もなく農業が難しい土地だったのだ。
 しかし、新木津用水の開削により入植者が増え、明治になっての拡幅により潤沢な用水が流れるようになり、豊かな農地に変わっていった。




◇原野を開墾……水不足に悩む

 味鋺原新田は、元は藩の家老である竹腰氏の知行所である味鋺村の北に広がる原野であった。
 東の丘陵地から低湿地へ移行する地域で農業用水に利用できる河川がなく永らく放置されてきたが、承応元年(1652)に竹腰氏の指示で開墾が行われた。

 寛文年間(1661~73)に編纂された『寛文村々覚書』では、
 田畑は10町2反9畝15歩(10.2㏊)で、その内、田が5反7畝2歩(0.6㏊)、畑が9町7反2畝23歩(9.7㏊)となっており、95%が畑であった。いかに農業用水が不足していたかが覗われる。

 寛文4年(1664)に新木津用水が開削され、入植者が増えていった。
 1800年前後に編纂された『尾張徇行記』では竹腰氏の所管(それ以外もごくわずか有る)する農地は、
田畑は113町9反6歩(113㏊)で『寛文村々覚書』の11.1倍に増えている。その内、田が23町4反24歩(23.2㏊)、畑が90町4反9畝12歩(89.7㏊)で、79.4%が畑であった。多少田の割合が増えてはいるものの、依然として水不足が続いている。

 このような土地に、301戸で1,401人が暮らし、馬が10匹いた。
 住人は他所からの移住者で、出身地毎に集落を構えていた。西街道(海東郡出身)、知多屋敷(知多郡出身)、美濃屋敷(河合村=現:恵那市出身)、花長(はなおさ)の四集落があった。

 農地も人口も大きく増えているが、年貢は固定石数ではなく、その年の実り具合を見て決める見取田畑になっている。新木津用水の流末で十分な用水が来ず、干害を受けやすくて収穫が安定しなかったからであろう。

◇新木津用水改修……十分な用水

 明治17年(1884)に黒川治愿により新木津用水の拡幅改修が完了し、豊かな水が届くようになった。
 味鋺原新田村と呼ばれていたが、明治22年(1889)に市制町村制施行により味美村に改称した。「味鋺原新田」の開墾により「美田」ができたことから「味美」にしたという。


現在の地形 国土地理院デジタル標高地図で作製




 2024/11/11