四谷家の
巾 下 屋 敷
 江戸時代、尾張徳川家は3つの分家を設けた。その一つである四谷家は、初期には所領内に屋敷を構えられる場所がなく、巾下の地に尾張屋敷を構えていた。


    尾張藩の分家   四谷家 名古屋に屋敷  四谷家 傑出した人物を輩出



尾張藩の分家
◇2代藩主光友の子 3分家を創設
 江戸時代、跡継ぎのいない大名は取りつぶされ、藩士たちは路頭に迷うことになる。
 このため、尾張藩2代藩主光友は自分の子3人を大名にして支藩を創り万一に備えた。

・四谷家
 天和元年(1681)に3男の義行が高取(現:飯田市)藩主になった。領地は伊那郡と現在の長野県北部である高井郡・水内郡のそれぞれの一部で3万石であった。

・大久保家
 天和3年(1683)に2男義昌が梁川(やながわ、現:福島県伊達市)藩主になった。領地は伊達郡の一部で3万石であった。
 この藩から享保15年(1730)に尾張7代藩主宗春がでており、それにより藩は消滅した。

・川田久保家
 正徳元年(1711)8月に11男友著(ともあき)が切米1万石(領地はなく、米の支給)を与えられ大名格になった。
 その子友淳(ともあつ)が四谷家を継いだことで川田久保家は絶えたが、友淳は四谷家から尾張藩8代藩主宗勝になっている。
 
大久保家と川田久保家は早くに廃藩されたが、四谷家は明治まで続いた。
なお家の名は、それぞれの江戸屋敷があった場所から付けられている




四谷家 名古屋に屋敷
◇四谷家 巾下に尾張屋敷
 四谷家は領地が信州の不便な土地であったので、大名になった天和元年(1681)に巾下に尾張屋敷を拝領した。なお『金城温故録』には、元禄元年(1688)から5年頃まで名古屋城三の丸東北にあった旧貞松院(初代義直の側室)屋敷を仮の館にしていたと書かれている。

◇所領替で高須へ移転
 元禄13年(1700)2月7日に発生し城下町の西半分を焼き尽くした元禄の大火で、巾下屋敷は全焼してしまった。
 翌3月になると、幕府へ「御領知之内御居所無御座候付」願い出ていた所領の交換が叶い、信州北部の水内郡などに代え美濃の石津郡などが与えられ、高須(現:海津市)を拠点にすることになり、高須藩と呼ばれるようになった。
 『鸚鵡籠中記』の7月29日の記録では「残らず年内に高須へ引っ越すことになった。ただし来年引っ越すものもある」とある。

◇納屋橋東に高須藩蔵
 巾下屋敷を尾張藩に返上した翌元禄14年(1701)、納屋橋東南の尾張藩蔵の東に高須藩蔵の敷地が与えられた。高須藩や藩士は米を売って現金にしなければならず、米商人が活躍する名古屋に蔵を構える必要があったのである。

 
『名古屋城下図』 元禄7年(1694)

『大日本行程大絵図』
 安政4年(1857)
「二万石」は誤記と思われる

『安政名古屋図』1854~60




四谷家 傑出した人物を輩出
◇尾張藩主を輩出
 8代宗勝が高須藩出身の最初の藩主で、9代藩主になる予定で宗勝の嗣子になった治行も高須藩出身だが相続前に死亡してしまった。なお、堀川で豪華な船遊びをした聖聡院は治行の正室である。幕末には14代慶勝、15代茂徳(もちなが)が四谷家から出ている。

◇高須四兄弟
 10代藩主の松平義建(よしたつ)の子は優秀な人物が多く、幕末の混乱期には大きな活躍をしている。
  徳川慶勝(よしかつ、2男)……尾張藩14代藩主
  徳川茂徳(もちなが、5男)……尾張藩15代藩主(後に一橋家当主)
  松平容保(かたもり、6男)……会津藩9代藩主
  松平定敬(さだあき、8男)……桑名藩13代藩主
 この4人は高須四兄弟と呼ばれ、この時代の流れを左右した人物である。
 その他に浜田藩(現:島根県浜田市)藩主松平武成(たけしげ)も高須藩の出身(3男)である。

◇高須藩の消滅
 明治2年(1869)の版籍奉還で、高須藩13代藩主松平義勇(よしたけ、10男)が引き続き高須藩知事に任命された。しかし、4年(1871)7月の廃藩置県以前に高須藩はなくなっている。

 どの藩も江戸末期になると大きな負債を抱えていたが、維新の激動の中でさらにふくれあがってしまった。小さな藩はもはや維持できなく、自分から廃藩を申請する藩がでてきた。明治2年の吉井藩(現:埼玉県)・佐山藩(現:大阪府)といった1万石の藩を皮切りに、さみだれ式に申請が続いた。

 高須藩は7番目に申請している。明治3年(1870)12月22日に高須・名古屋両藩主連署で、政府へ合併を願い出た。合併により無駄な費用が節約できるというのが主旨である。24日に承認され、旧高須藩知事 松平義生(よしなり)は名古屋藩権知事に任命され、高須藩は190年の歴史を終えた。




 2022/12/13