円頓寺ゆかりの
貞松院 下屋敷
 五条橋南西は、今では円頓寺商店街の一角として賑わっている。しかし江戸時代初期は、藩主義直の側室である貞松院の下屋敷が置かれていた。



 江戸時代初期、五條橋の南西に貞松院の下屋敷があった。

◇初代藩主義直の側室
 貞松院は、初代藩主義直の継室(後妻)と書かれている資料もあれば、側室とか妾と書かれているのもある。

 義直の正室は春姫(高原院)である。春姫は当時紀州藩主であった浅野幸長(よしなが)の娘で、慶長20年(1615)4月12日に婚礼を行った。しかし子どもが生まれず、跡継ぎが無いことを心配した幕府が土井利勝を名古屋へ派遣し側室を置くことを勧めた。




『万治年間之名古屋』 万治(1658~61)
   それを受け寛永元年(1624)2月に、津田信益(のぶます)の娘で後水尾天皇の中宮(皇后)である東福門院(徳川秀忠の娘)に仕えていた貞松院(名:佐井)が側室となった。

 貞松院と義直の間には来名から2年後の寛永3年(1626)に女の子が生まれた。名を「お京」(普峯院)と言い、後に広幡忠幸(皇族で臣籍降下して広幡家を創設)と結婚している。

◇円頓寺二世住職 貞松院の安産祈願
 円頓寺は日言上人が承応3年(1654)に創建し、2世の日道上人が貞松院の為に安産祈願をしたことで名古屋城天守閣の棟木余材により作られた一木三体の鬼子母神像を拝受している。

 円頓寺が創建されたのは、貞松院がお京を生んだ28年後である。
 このため、円頓寺で安産祈願したのでは無く、2世住職の日言上人は中区正木にある妙住寺の再興なども行っており、円頓寺の住職となる以前に祈願したと考えられる。
 『名古屋市史』には妙住寺の寺宝として「鬼子母神木立像(貞松院寄附)一躯」を挙げており、「一木三体の鬼子母神像」のうち1体を持って円頓寺へ入寺したのであろう。

※2代藩主は下級女中の子
 お京の誕生に先立ち、前年の寛永2年(1625)7月に尾張藩では男の子が生まれていた。生んだのは湯殿係の下女(下級女中)である「お尉」「於上」「御丈」(後に乾殿・歓喜院)であった。
 出身は春日井郡の大森村(現:守山区)や知多郡など資料により様々である。低い身分のため、妊娠したことが噂になっても義直は認知せず、家臣の山下氏勝が切腹覚悟で義直に詰め寄りやっと認めたとも、成瀬正虎が取りなしたとも言われている。この子が後に2代藩主になった光友である。

◇貞松院 男子も出産
 『山田村誌』には、西区上小田井にある法源寺について、次のように記載している。
 「其後百二十年政秀寺六世江天和尚の徒惟養禅師を迎えて法地となし北潭和尚と号して法地開山とした。
 北潭和尚は尾張源敬公の御二之丸貞松院殿の御子であつて、再建を志し母君貞松院殿より普請金を下附せられ寛文十二年(1672)三月之を完成させた。北潭和尚は時々登城仰せつかり、御寄附並に拝領品等があつた。尚寺紋として葵の御紋を許された。」
 貞松院は男の子も産んだが、武士にならず僧籍に入ったようである。

◇貞享元年(1684) 政秀寺に埋葬
 正室の春姫は寛永12年(1635)に36才で亡くなった。その後は貞松院が実質は継室になったのであろう。夫の義直は慶安3年(1650)に亡くなり定光寺に葬られた。

 貞松院が当初暮らした場所の記録は見つからないが、『名古屋市史』は万治2年(1659)から、三の丸の家臣の屋敷を立ち退かせて造られた貞松院の屋敷で暮らしたとしている。萬治年間(1658~61)に作られた地図では、東大手門の北西に屋敷が、五條橋の南西に下屋敷が書かれている。義直が亡くなった後光友が2代藩主になったので、藩主の住む二の丸御殿から新しく造られた三の丸の屋敷へ転居したのであろう。

 その後、延宝2年(1674)に娘のお京が亡くなり、政秀寺に葬られた。その10年後の貞享元年(1684)に貞松院も亡くなって娘と同じ政秀寺に葬られ翌年に廟が造られたが、明治44年(1911)に建中寺へ移築された。





 2022/03/04