矢来・門番・弓組・鉄砲組
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御山之内と周辺の図
御山之内の住宅図
『金城温古録』 |
厳重な警備
『金城温古録』に収録されている江戸末期の御山之内の様子を見ると、厳重な警備がなされている特殊な場所であった。
御深井の庭に面した東側を除き、北・西・南はすべて矢来(竹や木で作られた柵)で囲まれている。入り口は4か所。北と西は各1か所で南が2か所だ。木戸が設けられ門番がいる。門の外には制札が建っている。御深井の庭に近い北と南の2か所は「御用の無い者は一切入るべからず」と書かれている。「御用」とは「御」がついているので藩の公用を指しており、一般の人は入れない門だ。西と南の2か所は「勧進や乞食などは入るべからず」と書かれ、矢来の中に用のある人はここから出入りしていた。
中に入ると中土戸橋から西へ伸びる御山前之川筋が多少曲がりながらも、幅が広く地区のメインストリートになっている。今も中土戸橋から武島天神社へと伸びる道が曲がっているのは、この江戸時代の名残りを残しているのである。矢来に囲まれたこの地区内のすべての道は、見通されないようにT字路になり「御山七曲り筋」という屈曲した道もあった。
60人近い部隊が駐屯
江戸時代の終わり頃、この厳重な警戒の中に住んでいたのは「御側物頭同心」の「弓組」が1組、「鉄砲組」が2組の計3組だ。そもそも御側組は4組しかない。そのうち3組までがここに配置されていたのである。残る1組(鉄砲組)は御深井の庭の東側に配置されていた。「御土居下同心」と呼ばれたのがそれである。御深井の庭の東西に御側組が配置されていた。
1組の人数は19人(記録によっては20人)。ここには60人近い部隊が駐屯していたのである。地区内には矢場が2か所あり、武術の訓練も行われていたが、御深井の庭の土運び・枝打ち・草刈りなどの管理も行い、俗に「御庭組」とも呼ばれていた。 |
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奥向きの下級藩士も
「弓組」「鉄砲組」のほか、「御小納戸下役」「奥坊主」「奥陸尺」(人夫のこと)「御庭御中間」も住んでいた。いずれも身分は低いが藩主の奥向きの仕事に従事していたようだ。
『金鱗九十九之塵』には奥坊主の山田寿悦が特技の放屁を藩主の面前で披露した話が載っている。九代藩主の宗睦(むねちか)の命により、寿悦は口笛を吹いて神楽を演奏しながら、それに合わせて屁を太鼓として挿入したところ、お殿様は非常に笑い楽しまれたとのことだ。なお、屁にはその音色により絹糸・碇綱・蛙の筒入・九つ桟子・鴬などの名が付いていたとのことである。
庭の東に配置された「御土居下同心」については、門の警備などの通常任務のほか、落城のときには藩主を土居下から大曽根を経て木曽方面へ脱出させるという、秘密の重い任務を担っていたとされている。この御山之内に配置された同心たちも秘密の任務を持っていたのであろうか。秘密であれば口外・記録されることもなく、今となっては知るすべもないのが残念である。
西北の出丸
『金城温古録』は御山之内について「これ、御庭曲輪の為に西北の出丸〔本城から張り出して築いた砦〕にて、その矢来の門は、御庭曲輪中土戸の為に、皆二ノ木戸の御締りとなれる所なり」と記している。
また『金鱗九十九之塵』は「此地は御構の内」と書き、城の一部としている。
今は「城西五丁目」と呼ばれるこの地は、御深井の庭の前衛として設けられた砦だったのである。 |
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【参考】 『金城温古録』 『名古屋城三之丸・御土居下考説』 ほか |