低湿地帯で苦しい生活
中野村・丸米野村の様子

 江戸時代、現在中川運河に架かる中野橋付近は、当時の笈瀬川を挟んで東側は中野村、西側は丸米野村であった。 狭い農地しかない事に加えて笈瀬川は氾濫しやすく、厳しい環境のもとで人々は暮らしていた。このあたり、今も0m地帯がある。




    笈瀬川東岸に中野村、西岸に丸米野村があった。隣り合う二つの村は『尾張徇行記』(1800年前後に編纂)によると次のような様子であった。

 中野村の人口は267人で農地は約47町(46㌶)、丸米野村は人口が916人と多いが農地は約65町(64㌶)であった。
 1人あたりの農地面積は中野村が0.17町あるのに対し、丸米野村は0.07町しかない。昔は1家に1町歩の農地があると生計が立つと言われていた。仮に1家を4人家族で計算すると、中野村は0.68町歩、丸米野村は0.28町歩になる。中野村の生活も楽ではないが、丸米野村では自分の農地だけではとても生活できない。このため、隣村は無論の事、露橋村まで小作に出、副業で裏筵(うらむしろ)を織って生計の足しにしていた。

 生産物はどちらも同じで、畑で収穫した番南瓜(かぼちゃ)・東瓜(とうがん)・西瓜(すいか)などは下小田井の市場や日置村・尾頭橋近辺の商店に売っていた。中野村では藺草(いぐさ、畳表の材料)の栽培も行われている。

 笈瀬川は熱田新田より上流には堤防がないので、雨が降った後は氾濫して東西の田一面に溢れたとの事である。狭小な農地しかなく、そのわずかな収穫も水害でままならない厳しい環境で人々は暮らしていた。
 現在でもこの地域は標高が低く、河口から5.7㎞ほど内陸である篠原橋の北まで標高0m以下の地域になっている。


現在の標高
国土地理院デジタル標高地形図で作成

『丸米野村絵図』





『中野村絵図』





 2023/02/01