葛町遊廓見世附 享保19年 『名古屋史要』掲載 |
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よく話題になる宗春の規制緩和政策……その代表的な政策が遊郭の公許だ。しかしわずか7年で姿を消してしまい、300年近い年月がたった現在では何の面影も残っていない。話題になる割には知られていない姿を、昔の絵などから思い浮かべてみよう。 |
宗春 三遊郭を許可 | 足かけ7年で姿を消す |
足かけ7年で姿を消す |
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◇風紀問題で禁止 繁栄する地域となったが風紀を乱すと言うことから、元文元年(1736)三廓から遊廓の退去が命じられた。そのさなか西小路では4月18日に火災が発生し大部分が焼けてしまい、茶屋はすぐ他所へ引っ越した。葛町と富士見原の茶屋も次第に日置や門前町など他所へ移転していった。 移転先で引き続き営業を行っていたが、元文3年(1738)になると遊女を置くことが全面的に禁止となり、三遊郭内に残っていた建物は全部取り壊しとなった。三遊廓は、足かけ7年の短い期間で姿を消したのである。これにより名古屋には公許の遊女はいなくなったのである。 そして、翌4年(1739)に宗春は幕府に蟄居を命じられた。 ◇60年後 馬琴が見た名古屋 それから60年余経った享和2年(1802)6月、曲亭馬琴が名古屋を訪れた。『羈旅漫録』に名古屋の様子を次のように書いている。 「凡(すべて)劇場の外、三絃停止なり。見世物なども太鼓のみなり。凡酒楼中客二階にあれば、男子出て酌をとる。女子は二階へ上らず。国禁の甚しきことこれにてしるべし。名古屋にて針妙と称するもの、三州あたりの衒妻(げんさい)に同じ。これも今は稀なり。」 取締が厳しく、誤解を避けるため女性は2階座敷でのお酌はしないので、男性がお酌をしている。非公認の娼婦も少ない。宗春の時代とは大変な違いである。 |
2021/09/03 |
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