凧揚げのメッカ
大池紙鳶 『名区小景』
麹 ヶ 池
 上前津交差点から400mほど東へ行ったところに、麹ヶ池とか大池とか呼ばれた池があった。農業用溜池だが凧揚げが盛んに行われ、大きいのは3m、小さいのは3㎝ほどの凧も揚げられたという。現在中警察署があるあたりでのことである。


    農業用溜池 麹ヶ池   凧揚げのメッカ 麹ヶ池   池の跡地に名古屋商業会議所



農業用溜池 麹ヶ池
 麹ヶ池は大池とも呼び、明治13年編纂の『小林村誌』には次のように書かれている。
「糀ケ池 一名大池 村ノ中央ニ在り 東西壱町拾壱間 南北壱町三十三間 周囲五町二十八間 但村ノ用水トナス」(糀ケ池は麹ヶ池)。
 東西が129m、南北が169mの広さで、農業用溜池であった。

 また、『名古屋市史』は麹ヶ池について次のように書いている。
 「大池は本名を麹ヶ池と云ふ(一に麹麈池に作る)、中區大池町に在り、その大さ縱九十間、横六十八間、面積六千百坪、周回四町五十八間三尺あり、水田約十五町三段八畝二十六歩の灌漑の用水なり、
 此の池の起原は庄屋木村忠兵衛の所蔵寛保元年(1741)四月の記録に依るに、同氏の先祖より當時此池を寄附して、村方の溜池となしゝと云へど、紅葉集に寛文八年(1668)八月十五日、浪人相撲彌五右衛門と云へる者が、「前津ノ大池堤エ駈アカリ自殺仕候」と見え、叉元文の城下圖などに、既に大池を載せたれば、その誤文たるや疑ふ可からず、
 天保六年(1835)正月、池底の龜裂せる程に、その水乾揚りたりき、
 徳川時代には、春は摘菜、凧揚にて賑ひ、叉毎年正五九月、二十六夜まちに、府下の男女此堤に群集して、月を拜めりと云ふ」


『元文3年名古屋図』 1738

『前津小林村絵図』
 天保12年(1841)


『築港図名古屋測図』 明治41年




凧揚げのメッカ 麹ヶ池
 江戸時代は城下東南の身近なレクレーションの場所で、とりわけ凧揚げが盛んに行われた。

 江戸時代中期に書かれた『張州年中行事鈔』には「大池紙鴟(とび)」として
 「毎年二月頃になるとこの池の所で血気盛んな男や少年が紙鴟(とび、凧)を揚げる。尾張は紙鴟揚げが上手で、京や江戸は到底及ばない。大きなものは一丈(3m)余、小さなものは寸(3㎝)歩で、大空に揚がってまったく動かない」とある。

 江戸時代後期の『尾張年中行事絵抄』には
 「凧は、諸州におほかれど、他邦の人は、尾張いかとて、殊の外称美する由なり。切れて行、末は雲井や尾張凧と、難波人も吟じたり。此大池は、たこをあげるにはよき所なれば、日ことに此遊び絶せず。」と書かれている。

 また、幕末期に編纂された『尾張名所図会』には次のように書かれている。
 「大池 前津の東田面にあり。春のころは遊人多く、兒童こゝにて凧子(たこ)をあげてあそぶ。
 紙鳶を放てる事は、漢の韓信が工夫よりおこれりとかや。本邦に之を弄する事多く、其製作の巧なる事他國にまされり。凧は名古屋の名産といふべし。」

 いずれも麹ヶ池は凧揚げのメッカで、尾張の凧は他国より優れていると誇っている。


大池凧 『尾張年中行事絵抄』


富士見原 『尾張名所図会』

『名古屋明細地図』余白掲載図 明治19年 




池の跡地に名古屋商業会議所
 大正9年(1920)に、池を埋めた跡地へ名古屋商業会議所が移転し、さらに昭和42年(1967)に中警察署が移転して現在に至っている。

 名古屋商法会議所が明治14年(1881)に商工業の発展を目指して創立された。当初は間借りで転々としたが、明治29年(1896)に栄町7丁目に木造2階建135坪の本館と西洋造平屋建139坪の議事堂が完成した。
 四半世紀の間ここが使われたが、土地が借地で期限が切れたので、大正9年(1920)に大池町に土地(麹ヶ池跡地)を購入して建物を移築し移転した。12年(1923)になると鈴木禎次(名古屋高等工業教授)の設計による鉄筋コンクリート造736坪の立派な新館が完成している。
 旧本館は、昭和9年(1934)に建中寺へ移築され徳興殿として今も使われ、有形登録文化財になっている。

 昭和42年(1967)に現在の栄二丁目に新ビルを建築して大池町から移転し、跡地は中警察署などになっている。なお、この間に名称は商業会議所・商工会議所など数回変遷を重ねている。


『名古屋市街全図』 大正6年


『名古屋新地図』 大正13年

現 在






 2024/06/13