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慶応4年(1868)4月25日、大阪で開かれた御前会議で浦上村の隠れキリシタン全員の流刑が決まった。
この年と翌明治2年の2回に分け、3,000余人の信徒は21の藩に流配された。
名古屋へは明治2年(1869)12月に、腰縄で数珠つなぎにされて第一陣が連れてこられ、広小路の牢に入れられた。翌3年2月までに男女合わせて375人が名古屋へ流配されたが、1才にもならない赤子・妊婦・70才を超える老人までおり、金沢に次いで多い人数だ。牢だけでは収容できず、西本坊(西本願寺)・七ツ寺など5か所に収容された。
この時代、一般の人々は吉利支丹は邪宗を信じる怖い者、空を飛んだりする魔術を使う者と思われていた。
白洲に引き出し、改宗をしない者は竹で50回も滅多打ちにしたり、雁木牢と呼ばれる丈も巾も3尺(90㎝)で、尖った角材が突きだし、中腰を続けなければならない檻に入れたりした。
すさまじい拷問と、ほんのわずかしか支給されない食糧、はやる熱病のなか、名古屋に流配された信徒は一時期には全員が表面上では改宗を承諾したという。
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