日本最初の活性汚泥処理
堀留水処理センター

 人々が密集して暮らす大都市。衛生的で水害のない街づくりには上下水道が不可欠である。名古屋では明治の終から大正にかけて整備が進められた。
 当初は集めた下水をそのまま堀川と新堀川に放流したので、たちまち川は下水溜りに変わってしまった。このため当時の日本ではまだ行われていなかった最新式の下水処理である活性汚泥法による処理場の建設が始められ、昭和5年から稼働し始めた。


    大都市に必要不可欠 上下水道   下水処理場の建設



大都市に必要不可欠 上下水道
◇街の衛生と安全
 名古屋の旧市街地の上下水は、明治になっても江戸時代と同じであった。上水は江戸時代につくられた巾下水道の給水区域(堀川西岸の西区幅下~中村区名駅南)以外は井戸を利用し、下水は側溝に排出した。側溝は板柵などで造られているので下水の一部は地中へ染みこみ、大雨が降ると溢れて広範囲で浸透する。このため井戸水は汚染されることが多く、市の人口が増えると伝染病などが流行する可能性が高くなる。
 また、家屋が増えると地中にしみこむ雨水が減り、排水能力を高めないと浸水被害が発生しやすくなる。
 人々が密集して暮らす大都市では、上水道と下水道は必要不可欠な施設である。

 名古屋の人口は、市制が施行された明治22年(1889)は15万人余、30年(1897)は23万人余、35年(1902)は27万人余、と急速に増えていった。

◇上下水道の整備
 明治26年(1893)に内務省の衛生顧問であるバルトンに実地調査を依頼したが、事業着手には至らなかった。

 32年(1899)には愛知県技師の上田敏郎に施設計画を依頼し、36年(1903)に計画ができあがった。さっそく市議会に諮問したが結論が出ないなか、37年(1904)に日露戦争が勃発してしまった。戦争が終わり再び審議され、39年(1906)に事業実施を議決した。

 41年(1908)に内務大臣の認可がでたので、上水道は42年(1909)8月に着工して大正3年(1914)から給水を開始した。
 下水道も認可後に設計を始めたが、この時に汚水だけを下水に流す分流式で構想されていたのを汚水と雨水を一緒に流す合流式に変更された。44年(1911)に11か年事業として実施設計の認可が下り、工事が始まった。十数幹線をを一斉に着工し、大正元年(1912)には鶴舞橋線記念橋線始め3線が竣工している。その後、市域の拡大や第一次世界大戦による景気の変動があり、大正12年(1923)に創設工事は完了した。




下水処理場の建設
◇堀川・新堀川の汚濁 + し尿処理の行き詰まり
 下水道は完成したが、集めた下水はそのまま堀川と新堀川へ放流された。市街地の衛生環境や水捌けは良くなったが、そのしわ寄せが全て放流先の二つの川にきて、堀川と新堀川の水質は急速に悪化していった。

 また、し尿処理の問題も抱えていた。
 下水が整備された当初は、し尿は浄化装置で処理したもの以外の下水への放流を禁止していた。このためほとんどが従来と同様にくみ取りであった。
 し尿は農業の肥料として使われてきたが、市周辺の農村は市街化が進み農地が減少し、化学肥料の使用も増加して需要が減少していた。くみ取り業務は農家がくみ取るもの以外は大正(1912~)初期から民間会社が請け負っていたが採算がとれず、大正11年(1922)からは市の直営になった。一部は硫安(窒素肥料)に加工したが工場が焼失し、12年(1923)から伊勢湾での海洋投棄にしたところ、漁業者から苦情が出るようになった。知多郡や海部郡・三重県などの農会に無償で提供する事で海洋投棄を大幅に減らし、15年(1926)からは下水へ放流を始めた。これにより堀川と新堀川の汚染はよりひどくなった。

 「両堀川の水質は今や全く下水を以て汚染せられ、悪臭を発散し汚滓を浮流し、其の状恰も下水溜の如き観を呈し、保健衛生上又市の体面上到底現状の儘放任する能はざるに至れり」という状況になったのである。

◇日本で最初 活性汚泥法による処理場
 下水処理場の建設が急務であった。

 日本では大正11年(1922)に東京の三河島処理場ができていたが、厚さ1.5~2mの砕石に下水をまいて石の表面に付着している生物膜で浄化する撒水路床法であった。
 イギリスでは大正3年(1914)に現在主流となっている新方式の活性汚泥法を採用した処理場が稼働し始めていた。このため市は大正13年(1924)から熱田ポンプ所構内で活性汚泥による浄化実験を開始し、汚泥の生成に成功した。

 これを受けて活性汚泥法により処理する処理場を、堀留と熱田の2か所に建設し、併せて処理場に下水を送る中継ポンプ所として堀留に送る洲崎橋、熱田に送る中島・高蔵の3ポンプ所を建設することとした。
 昭和2年(1927)4月に内務大臣に建設認可申請を提出し、翌3年3月に認可が出て7月に熱田、9月に堀留処理場の工事が始まった。5年(1930)10月に完成して下水処理が始まっている。日本で最初の活性汚泥法による処理場である。
 なお、7年(1932)には水洗便所築造に関する条例が制定され、くみ取り式便所の廃止へ向けての取り組みが始まっている。また、精進川上流部の水を新堀川へ導水する支川は、下水幹線の整備とともに姿を消した。

 堀留処理場は市の中心部に近く人家も建て込んでいるので、景観と敷地節約の為立体的に建築し、沈砂池や曝気槽は覆蓋して上部を芝生広場にした。また周辺への臭気拡散を防ぐ為、31mの排気塔を建てた。






堀留下水処理場 『絵葉書』


処理場設置前 大正3年 『名古屋枢要地図』


処理場設置後 昭和12年 『名古屋市街全図』
◇若宮大通建設で一部施設移転
 戦災復興事業で若宮大通が建設される事になり、堀留下水処理場の一部が道路にかかる事になった。このため昭和38年(1963)に機械室を移転している。また処理場のシンボルとなっていた排気塔も撤去された。


◇施設の増強

 戦後の名古屋は急速に発展し、堀留処理場の流域である中区はとりわけ人や建物の集積が進み、汚水や雨水が増加し処理しきれない状況になってきた。
 市街地にあるので用地の拡張が難しく、道路を挟んだ西側の久屋大通公園の地下に増設する事になった。昭和45年(1970)に着工し48年(1973)に完工している。
 それまでは一日63,000㎥の処理能力であったが、旧施設も含めると270,000㎥の高級処理ができる施設になり、流入する下水の全量処理が可能となった。増設された施設の地上部には平成10年(1998)にランの館が造られ、現在はフラリエが設置されている。

◇堀留水処理センターの廃止?
 都心の一等地にある堀留水処理センター(下水処理場)は、令和元年(2019)に発表された「次期上下水道経営プラン2028案」では、「上部空間の高度利用化」が盛り込まれていた。翌2年(2020)の市議会では「今後の都心部のまちづくりと連携した水処理センターのあり方として、廃止も含めて検討します」と答弁がなされ、上下水道局・住宅都市局・土木局など関係機関で検討が進められている。

◇いのくちポンプ
 堀留水処置センターの北西角にポンプが展示されている。
 これは熱田ポンプ所で昭和2年(1927)から52年(1977まで雨水の排水に使われたポンプで井口ポンプと呼ばれるものである。
 井口在屋は東京帝大の教授で、明治38年(1905)に渦巻ポンプの設計理論を確立し世界的な評価を得た人物である。教え子の畠山一清が実用化し、効率の高さから広く普及した。なお、ポンプ製造の大手、荏原製作所は畠山の経営していたゐのくち式機械事務所が母体となって大正9年(1920)に設立された会社である。






 2024/05/20