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◇開府当初の市街 広小路以北
開府の頃の城下町は堀切筋(後の広小路)までであった。
その南は松原が広がる原野、その南に大須観音などがある南の寺町が造られ、日置村は寺町の南に位置していた。村の中央に堀川が造られ、川岸は藩の重臣たちの下屋敷(別荘)となったが、村はまだ田園地帯であった。
江戸時代初期の寛文(1661~73)頃は、242戸で1,238人が暮らしていた。
堀川より東は水害の心配がない名古屋台地なので、農家の住居や神社・仏閣は東に集中し、主に畑作が行われていた。西側は水の豊かな低湿地なので、田が広がり、その中に畑が散在しているという景色であった。
◇徐々に町家が増加 |