前津一帯は城下町に近くて高台なので景色が良く、江戸時代から別荘や料亭があった。その一つが端之寮である。変わった名は、京都で有名だった塔頭に似ているから、その名で呼ばれるようになったとのことである。 |
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端之寮は前津にあった料亭である。『名古屋市史』に次のように書かれている。 | |||
「端之寮は前津矢場地蔵裏南方、南鍛冶屋町筋、南端の東角に在り、もとは中西氏の扣なり(九十九之麈に其かみ青柳菴と云へる人住みし跡なりと見えたり)、 後、魚の棚小汐屋文蔵扣になりて、貸席となし、藝者を置きて、酔客を歓待し、春は花、秋は紅葉、月雪などの眺めも疎からず、假山、園池みな幽趣あり、遊人四時絶えず、此地は京都丸山の端之寮に似たればとて、自然と端之寮とは云ひしなりとぞ、後に成瀬半太正直(竹之助の家也)之を求めて、明治維新後こゝに移る、後海部昂藏の宅となる」 |
『安政名古屋図』 1854~60 |
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元は武士の所有だったのを魚の棚の小汐屋が購入して、芸者が接待する料亭にして繁昌したとの事である。 変わった名称の端之寮は京都の東山にあった塔頭の一つで、高低差を利用した建物と庭園があり京の街を一望できる景観の良い所として知られていた。現在は円山公園の一部になり姿を消している。前津のこの料亭はそれとよく似ている事から同じ名で呼ばれるようになった。 明治になると尾張徳川家の家扶で、困窮する旧藩士救済の為北海道八雲に開設した徳川農場への集団入植や、徳川家が創設した明倫中学校(現:明和高校)の開設に努め、初代校長になった海部昂蔵もここに住んでいた。 |
2024/06/10 |
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