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この絵は江戸時代末期に描かれた『尾張名所図会』のなかの「廣井官倉に貢米を納る図」。
奥が御蔵 手前が堀川、川岸はすべて船着場になっている。
たくさんの船が堀川に浮かび、船から60㎞もある米俵を担いで陸揚げしている人、岸辺の広場には陸揚げされた貢米(税金として納められた米)が山積みにされ、検査の武士や検査を終えた米を御蔵に運んでいる人々がいる。左の真中あたりでは、2人が米を俵に詰め直しており、御蔵の塀際にはたくさんの大八車。何棟もの大きな蔵の屋根では、こぼれた米にありつこうとおびただしい数の鳥が隙を狙っており、活気あふれる御蔵の風景が生き生きと描かれている。
御蔵は税金を保管しておく大金庫のようなもの‥‥尾張藩の財政を支えており、堀川沿川では、白鳥にあった軍船等を収納しておく「御船蔵」、今の州崎橋周辺にあった水軍関係者の「御船奉行屋敷」「水主屋敷」といった軍事的な施設とともに、藩の最も重要な施設の一つであった。
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清洲から移築 三蔵
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ここに御蔵が造られたのは、清洲から名古屋へ遷府の時。
清洲にはかつて福島正則が城主だった時に建てた、長さ30間(約55m)もの大きな蔵3棟があった。この蔵を名古屋のこの地へ移築し、その他にも多くの蔵を建て尾張藩の御蔵とした。
清洲にあった頃は3棟だったので「三つ蔵」と呼ばれ、移築後は多数の蔵があったものの、旧名を引き継いで通称「三蔵」(みつくら)と呼ばれた。
この地を選んで御蔵を建てたのは、むろん大量輸送ができる堀川の舟運の便が利用できるためである。 |
『天明年間名古屋市中支配分図』
1781~9 |
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建ち並ぶ 26棟の蔵
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広井貢納蔵屋敷図
『天明年間名古屋市中支配分図』
1781~9 |
御蔵は南北が約144間1尺(262m)、東西が北側(広小路側)は40間(73m)南側は62間(113m)という広大な敷地に建てられていた。
堀川岸の納屋橋寄りは「諸事揚場」になっており一般住民も利用できる場所であった。その南は木戸で仕切られ「御年貢揚場」‥‥御蔵専用の広い船着場になっている。敷地には高塀がめぐらされ、大量の米の搬入ができるように5か所の門が設けられていた。
構内に入ると蔵が建ち並んでいる。その数は26棟。83の出入口があり、7万3000石(182,500俵、1万トン余)の米を保管できた。3か所の井戸と水溜(防火用水)が設けられ、元和5年(1619)からは蔵の管理を担当する御蔵奉行がおかれていた。
毎年9月28日(旧暦)が年貢米が初めて搬入される日で、藩ではこの日を「御吉例」と呼んでいた。
尾張藩69万石(公称、実質は百万石)の財政を支えた御蔵は、大藩にふさわしい大規模なものであった。
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城下の御蔵はこの他に名古屋城内の御深井丸と堀留(当時の堀川上流端、今の朝日橋付近)にもあった。堀留の御蔵は享保10年(1725)に大破して取り壊され、その分は御深井丸で収蔵するようになった。御深井丸には5棟の蔵があり2万3300石を収蔵できたが、この蔵は立地や運搬の利便性からみて、兵糧米などの貯蔵といった性格が強かったと思われる。 |
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明治には、懲役場から倉庫に
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永年にわたり尾張藩の財政を支えてきた御蔵も、明治4年(1871)には廃藩置県が、6年(1873)には地租改正が行われ、税金は米による物納から金納制に変わり御蔵の役割も終わった。 |
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明治6年(1873)に、それまで広小路本町の東南角にあった徒場(刑務所)がこの地に移され、懲役場と名称も変えられた。
この懲役場では9年(1876)に火災が発生。囚人達も協力して消火活動をしたが、この事による減刑を求めて300名の囚人が窓を破って県庁(当時は今の中区役所の北東に在った)までデモ行進を行った。結局、さとされて懲役場に戻ったが、今では考えられないのんびりした時代である。
その後、明治39年(1906)に設立された東海倉庫株式会社が堀川の舟運に便利なこの1万5000坪の土地を買収し、翌40年(1907)5月16日に250坪の倉庫として開業した。 |
『愛知県第一区名古屋并熱田全図」
明治11年 |
『名古屋市実測図』
明治43年 |
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今では御蔵をしのばせるものはないが、跡地にはテラッセ納屋橋などができて賑わっており、天王崎橋を東西に通る筋を「三蔵通」、堀川の一本東の南北筋を「竪三蔵通」(たてみつくらどおり)と、わずかに通りの名にかつての御蔵の名残がみられる。
平成13年(2001)7月には、御蔵の御年貢揚場であった場所に船着場が設けられ、ここから御座船風の船で堀川をクルージングできるようになった。今再び、この地が堀川の舟運の拠点として脚光を浴びようとしている。
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