武道の振興
武 徳 殿

 日清戦争のさなか、武道の振興を図るため大日本武徳会が結成された。その後全国規模に拡大し、名古屋にも新堀川の鶉橋東に武徳殿が建設された。太平洋戦争中は東条英機を会長とする政府の外郭団体になったが、敗戦で強制解散させられた。日本の占領が終わると逆コースの波の中再び結成されている。





◇日清戦争中 設立
 明治27年(1894)7月、明治以降初めての対外戦争である日清戦争が勃発し、翌28年(1895)4月に終戦になった。
 この戦争の最中、28年(1895)2月に大日本武徳会の設立が発起され、4月に正式に結成された。

 32年(1899)には京都に武徳殿が建設され、44年(1911)には天皇からの下賜金も得て武道専門学校が開校されるなど、全国規模の組織に発展していった。

 そのようななか、名古屋にも40年(1907)に武徳殿が鶉橋の東に建てられた。
 『愛知県写真帳』(刊:明治43年)は次のように記述している。
  「名古屋市前津小林に在り。明治四十年本殿建築成る。目下剣柔槍弓の四術を講習す。」


『大名古屋市街全図』
昭和10年
◇太平洋戦争中 政府の外郭団体に
 太平洋戦争のさなか昭和17年(1942)には、旧武徳会を改組して、政府の外郭団体の新しい武徳会を発足させ、厚生・文部・陸軍・海軍・内務省の管轄になり、会長には東条英機が就任している。

 昭和20年(1945)3月19日夜の大空襲で、名古屋の中心市街地は焼け野原に変わったが、この時、武徳殿も焼失し姿を消した。

◇敗戦で強制解散 その後復活
 昭和20年(1945)8月の敗戦で状況が一変し、GHQにより好戦団体に認定をされる可能性が高くなった。21年(1946)10月に自主解散を決議し文部大臣の許可が出たが、GHQはそれを認めず11月9日にポツダム勅令により強制解散させられた。

 その後、27年(1952)にサンフランシスコ平和条約が発効して独立が回復されると、翌28年(1953)に任意団体の大日本武徳会が設立され、37年(1962)には第一回全国武徳祭を開催し、今も活動を続けている。
 団体登録を見ると、居合道・剣道・剣術・空手道・柔術・弓道・槍術・杖術・くさり鎌術・その他古武道に区分され、愛知県下からは居合道に3団体、空手道に1団体が登録している。


『絵葉書』


『愛知県写真帖』 明治43年






 2024/06/13