『名古屋明細全図』 明治28年 |
|||
名古屋都心の繁華街大須には、かつて遊廓が設けられていた。 大須は江戸時代から芝居や見世物興行で賑わっていたが、明治初期に遊廓が設置されると一段と繁栄する地域となった。しかし、街中にある弊害が問題となり、大正の終わり頃に当時は農村であった中村へ移転し約50年の歴史を閉じている。 |
江戸時代の遊廓・遊女 | 大須に旭遊廓 | 中村遊廓へ移転 |
◇旭遊廓 誕生 北野新地は墓地に囲まれた土地で拡張の余地がないため、八年に北野新地を廃止しその西に旭遊廓を置くことになった。元は下級武士の組屋敷があったところで、明治になると荒廃していた地域である。 明治10年(1877)になると家屋が建ち並ぶ街となり、町名も常盤町・花園町など華やかで縁起の良い名に変えられた。 |
||||
『名古屋明細図』 明治11年 | 現在の地図と旧町名 |
◇遊廓の様子 地区内は遊女屋が多くを占めているが、楊弓や貸馬場のような来訪客の遊ぶ場所、鮓屋や料理屋、人力車の店・写真館・風呂屋・断髪所(床屋)などもあり、大きな繁華街となった。 明治22年(1889)に名古屋電灯が電気の供給を始めたが、その申し込みを最初にしたのが旭遊廓の寿・沈水・金波楼などで、文明開化を感じられる場所でもあった。 明治36年(1903)発行の『名古屋案内』は、次のように記録している。 「廓内七ヶ町を含み、街衢(がいく)最も繁華にして、建築最も宏壮なるを若松町とす、道路の中央に種々の花樹を並植して、頗(すこぶ)る風致に富むを花園町となし、常盤町、音羽町、東角町、吾妻(あづま)町、富岡町等之に亜(つぐ)なり、 而して枕水、金波、壽、宮田、福岡、豊本等を大籬(おおまがき)となし、貸座敷百七十余軒、娼妓千百余人、廓連と称する藝妓百数十名あり、 料理店、蕎麦屋、飲食店、其他種々の露店ありて、景氣を添ふ、殊に五層楼なる枕水は、電氣機關を設備して、自家用電燈を点じ、美観極りなし。」 花園町は道路の中央に桜が植えられていた。『名古屋案内』には次のように書かれている。 「花園町の桜は、今は稚木多けれど、花は貧しからず、流石(さすが)は狭斜の巷だけに、夜桜殊に好し、月色朦朧として、春風なま暖かき夕、微醺を帯んで、花の間に徨(さまよ)ふまた可ならん」 妓楼四海波の縁者で、大正の終わり頃13~4才だった方(後に中村で特殊浴場「新金波」を経営)の思い出が、『遊廓 成駒屋』に収録されている。 「旭遊廓(大須)は、中村に比べると、そりゃあ古めかしい遊廓でした。だいいち、道路が狭うて、建物も小そうて、ごちゃごちゃと建てこんでいる感じじゃったわの。それでも、玄関の柱や二階の手すりなんかには漆が塗ってあったりして、それなりに風格がある建物もありました」 ◇濃尾地震・大火災 旭遊廓は何度も災害に見舞われている。 明治24年(1891)にこの地方を襲った濃尾地震では、廓内で倒壊した家もあった。ただ、各地で非常に大きな被害が出ているため、当時の新聞などでは旭郭の被害状況についての記事は見当たらない。 |
花園町提灯祭 『新版名古屋名所図会』 |
||
その翌年、明治25年(1892)に大須で134戸が焼失する大火災が発生した。大須観音にあった五重塔や宝生座(劇場)が焼け落ち、旭遊廓にも延焼して若松町・吾妻町の妓楼なども何軒も焼失した。 明治36年(1903)にも再び大火に見舞われた。沈水楼から出火して大楼だけでも金波楼を初めとして18軒が全焼している。 たび重なる災害にもめげず立ち直り、娼妓は年々増えて『名古屋市史』によると明治27年(1894)頃は約700人、37年(1904)頃には約1,000人、大正3年(1914)には妓楼が179軒で娼妓が約1,600人になっていた。 ◇自由廃業運動 始まる 函館の娼妓が訴えた楼主などへの廃業届への連署調印請求訴訟が、明治33年(1900)2月に大審院で勝訴となった。これを受けて名古屋で廃娼運動をしていたアメリカ人のモルフィが、金水楼の藤原さと、蓬莱屋の大橋ひさに同様の訴訟を起こさせて5~7月に勝訴した。訴訟費用は婦人矯風運動家たちが負担したという。 これにより全国的に自由廃業運動が起きる事になった。 |
|
|||||
濃尾地震で倒壊した旭遊廓の家屋 明治24年 『濃尾大震災写真帳』 |
旭遊廓の大火 金波楼・深川楼の焼け跡 明治36年 『明治の名古屋』 |
2021/09/25 |
|