藩士の射撃練習場
矢田川原 鉄砲稽古場

 江戸時代初期、大幸村の矢田川北に射撃の練習場が設けられた。
 藩士たちは屋敷での練習とともに、ここへ出向いて主に長距離射撃を練習していた。その成果を披露する「惣打」には、尾張のお殿様が視察に訪れたこともある。日本沿岸に異国船が姿を現すようになると、海防強化のため演習が行われた。


    鉄砲の稽古   鍛錬の成果を披露 惣打   異国船出現に備え 矢田川原で演習



鉄砲の稽古
 藩の鉄砲の射撃練習場と煙硝蔵(火薬庫)は、当初建中寺の北に設けられていたが、寛文5年(1665、寛文6年説もあり)に射撃練習場は矢田川原へ、煙硝蔵は萱場へ移転した。

◇大幸村……道具蔵と稲冨家の屋敷
 射撃の練習に必要な道具をしまう蔵が大幸村に建てられた。
 『寛文村々覚書』に「御蔵 弐軒 内 壱軒 是ハ御鉄炮道具入、当村へ御預ケ、銭壱貫文ヅツ御鉄炮奉行衆より年々渡ル 但、弐畝四歩、新田高の内、証文引ニ成。」と書かれており、村に管理が委託されていた。2軒の蔵の内のもう一つは、水防倉庫である。

 『尾張徇行記』の大幸村の項に「其内稲冨平左衛門鉄砲稽古場アリ、元拝領地ナリ、古来ヨリ放炮ノ地ヲ通称矢田河原トイヘトモ、実ハ大幸村界内ナリ、サレハ夏ノ中放炮ノ課役ハ、多ク大幸村カヽリニナリ来レリ」
 守山村の項に、「此村内トオボシキ所、矢田川傍ニ稲冨平左衛門拝領屋敷アリ、是ハ大幸村境内也」
 『大幸村絵図』を見ると、村はずれの守山村境に「稲留平左衛門様□場」の記載がある。瀬戸街道を北へ進み矢田川を越えた(当時は橋がなく徒渡り)すぐのところ、川原近くに稽古場の施設があった。
 稲冨家は藩の鉄砲御用(師範)を務めた家で、代々平左衛門を名乗り400石の家禄であった。


『大幸村絵図』
稲留は稲冨の誤記

◇4~7月に稽古
 『尾藩令条』によると、寛文9年(1669)に出されたお触れでは、射撃の練習は毎年4月1日から7月末日まで行うこととしている。これは一般的な規定で、鉄砲の師範などは届ければいつでも可能であった。
 『尾張年中行事絵抄』の4月1日のところに次の記載がある。
 「此日より矢田河原にて、鉄炮の師家、仮屋をかまへて鉄炮を放し、遠打を修練す。又、屋敷方にても、御先手物頭衆にては、配下の同心集りて、鉄炮を打なり。」

◇武家屋敷での稽古も
 矢田川の稽古場は遠距離射撃などの練習場で、短距離は各屋敷でも行うことができた。
 三の丸内の屋敷ではつるべ打ち(連射)は原則禁止、また屋敷内で鳥を撃つのも禁止されていた。玉が外に飛び出さないように的の後ろに設ける「あづち」(土盛り)は高さ9尺(2.7m)、幅2間(3.6m)以上にする規定も設けられていた。




鍛錬の成果を披露 惣打
 練習期間の終わり頃、毎年7月には矢田河原で「惣打」が行われ腕前を披露した。

 「元禄御畳奉行」として知られる朝日文左衛門の日記『鸚鵡籠中記』には、惣打を見に行った記録がいくつも載っている。正徳元年(1711)7月21日に行われた時の記録を見ると、色々な種目の射撃が行われた。

 的までの距離は、1町(109m)・8町(0.87㎞)・10町(1.09㎞)・15町(1.64㎞)・20町(2.18㎞)の5種類あった。的は1町だけは人形で、それ以外はすべて幕を使用した。
 使用する鉄砲は、10匁(37.5g)玉(弾)を発射するものが一番小型で、100匁(375g)玉・150匁(562g)玉・200匁(750g)玉・300匁(1.13㎏)玉などがあった。
 一番小さな10匁玉は直径19㎜位あり、いっぱんに火縄銃と言ったときにイメージされる小筒(こづつ)や中筒(なかづつ)より大きい士筒(さむらいづつ)と呼ばれるものである。距離1町の射撃だけこの玉を使用している。

 銃と砲の境界は時代や国によりさまざまだが、現在の自衛隊では口径20㎜以下を銃、それ以上を砲としている。矢田川原での「鉄砲」修練は、実質「大砲」の練習だったようである。
 弾を撃つほか、火矢・棒火矢(ロケット状の弾を火薬で発射し、家屋などに火災を起こさせるもの)・子母砲(大砲の手元側が空いていて、玉と炸薬をセットにしたカセットを挿入して撃つ大砲)・田村矢(大砲から打ち出す大量の火矢)などの射撃が行われ、的を狙うほか、時間内にたくさん撃つ「早打」も行われた。

 この日の惣打には、夜になって藩主がお忍びで視察に来たとのことである。




異国船出現に備え 矢田川原で演習
 1700年代後期になると異国船が日本沿岸に姿を現すようになった。寛政3年(1791)に林子平は『海国兵談』を出版して海防の重要性を説き、翌4年(1792)10月にはロシアのラクスマンが漂流民である大黒屋光太夫始め2人の日本への送還と通商を求めて根室に来港する事件が起きた。

 幕府は各藩に海岸防備の強化を指示した。
 尾張藩は翌5年(1792)から矢田川原で異国船が出現したときの演習を始めている。『尾張徇行記』に次ぎのように記録されている。
 番頭・大目付・目付・先手物頭・弓組・鉄砲組・大番組・歩行目付・筆談儒者・金瘡医(外科医)・馬医まで参加した。みな馬に乗り、家に伝わる馬印や幟を従者に持たせ、各自陣羽織や陣笠を身につけ、得意の武器を携えて非常にきらびやかな姿であった。本町御門を出て東片端を通って矢田川原へと向かっていった。
 その後はだんだん略式になり、4年に1回演習が行われるようになった。

 幕末になり世情が風雲急を告げるようになると、武力の強化が必要になった。矢田川原での鉄砲稽古は、嘉永3年(1850)に4~8月、大砲稽古は3月~8月の期間できるよう延長された。また、各屋敷内での鉄砲稽古は特定の区域を除き、いつやっても良いように変わった。なお、これらの規定は何回か変更されている。




 2025/03/07