現在千年と呼ばれる地域の南半分は、かつての作良新田である。 尾張藩が幕末に開発し、新田だけでなく商業などでの利用ももくろんだが維持しきれず、16年後に名古屋の豪商に払い下げた。 明治後期、築港に伴って1・2号地ができるまで、海に面する南端の土地であった。 |
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◇藩が開発……熱田築地前新開 作良新田の地は天保8年(1837)に地方勘定奉行所により開発された。面積は100町(99㌶)余、現在の築地口まで堀川右岸に広がる広大な新田である。 当初の名前は「熱田築地前新開」であった。新田ではなく新開と呼ばれるのは珍しい。 開発から13年後の嘉永3年(1850)に船方新田と熱田築地前新開の北寄りの所を宅地にする政策が藩により行われた。 家を建てて住んだり商売などをしたいものは奉行所へ願い出よというお触れが出たのである。城下の商人が出店を設け輸送する荷物の陸揚げなどに使うのも良く、料理茶屋も10軒ほどは許可する見込みとなっている。他国の人の目にもとまる場所なので国(藩)の体面もあり、奢侈になってはいけないが建物の様子や商売の内容は願い出を見て審査するとの事である。 どのくらいの家が建ったかは記録がないが、「新田」ではなく「新開」と名付けたのは、開発当初から農業以外の用途も想定していたからだろうか。 |
下図 1/25000 大正9年 |
◇豪商に払い下げ 熱田築地前新開は藩の所有であったが、嘉永6年(1853)11月に名古屋の豪商である関戸・伊藤・内田の3家に2万1千両で払い下げられた。 |
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この頃藩は財政が行き詰まり、1月には有力商人など数100人を評定所に集めて3奉行などが揃って調達金を依頼するほどであった。そのようななか6月にはペリーが浦賀に来航して開国を迫り、各藩は大砲など武器の強化や海防体制拡充などで多大な出費が必要になった。このような状況なので藩は払い下げたのであろう。 ◇作良新田に名称変更 文久元年(1861)には名前が作良新田に変わり、3年(1863)には内田氏の持分が関戸・伊藤両家に譲渡され、2家の所有になった。 新田にある千年八幡神社境内に建つ明治24年(1891)の灯籠に「関戸守彦 伊藤次郎左衛門」と刻まれているのは、2人が作良新田の大地主だったからである。 明治9年(1876)に、船方・作良の2つの新田を合併して千年村と呼ばれるようになった。 |
1/50000 明治22年測図 |
2023/04/05 |
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