江戸時代後期に開発された熱田前新田により広大な土地が生まれた。担当したのは熱田奉行であった津金文左衛門である。 その功績をたたえる立派な碑が、港区役所の北に建っている。 |
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港区役所の北に津金文左衛門の頌徳碑がある。昭和27年(1952)12月に津金頌徳会が建てた、大きくてユニークな形の立派な碑だ。 裏面には経歴を紹介し、飛島新田・熱田前新田の構築などの功績をたたえ、故あって切腹したと記されている。 ◇熱田前新田は失敗? 一方『名古屋市史』には「熱田前新田築立に就きての世評」として『熱田乗合船』という一文が収録されている。これは老農夫が語った言葉という体裁で次のように批判している。 「この新田は大変な費用をかけて開発し、担当した津金さんは学者のように人が恐れていた。汐気のある新田で栽培するにはこつがあるが、経験者に聞く事無く進めたし、このような新田は特殊な用排水路の作り方をしなければならないがそれもやっていない。汐気のある土地では、最初は水稗、その後空豆・生綿と植えて、だんだん汐気を除き、その後米を植えなければ米は実るものではない」。 |
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十分な知識のないまま、専門家の意見に謙虚に耳を傾けず進めた結果、ろくに米の採れない新田になったとの痛烈な批判である。 『大手』(大手小学校50周年記念誌)には 「南之割は検地の際「水付不納場所」とされた。土地が低くて浸水しやすくほとんど作物が取れない年貢不納の場所である。ここの最初の地主は土地改良のために多額の出費をしたが成果はあがらず、ついに手放されなければならなかった。」 と書かれている。 この地域の農業用水は庄内用水に頼っているが、末端の水が届きにくい地域である。 熱田新田築造の時は木曽川から取水する木津用水を開削し、流末を庄内川に流し入れることで取水量の増加を図っているが、熱田前新田の時にはそのような工夫も見られない。汐気を含んだ土地で、十分な用水も得られない新田、あるいは水はけが悪く作物が実らない新田であった事が覗える。 ◇最後は切腹? 碑文にある「故あって切腹」には異論もあるようだ。 津金は大須の大光院に葬られた。当時は土葬である。戦後の復興事業で市内の寺にあった墓地は平和公園へ移転する事になった。 碑が建てられる約半年前の昭和27年(1952)5月11日、改葬のため津金の棺を掘り出した時蓋が開いてしまった。遺骸は屍蝋化していたが、郷土史家で画家の山田秋衛が棺内に血の付いたかとも思われる布があったのを見て、「学問的な研究ではないが」との断りを入れて切腹説を発表した。 『藩士名寄』では病死とされ、子孫にも切腹の伝承はないという。実際はどうだったのか、今となっては不明である。 |
2023/04/13 |
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