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◇戦災復興……港に盛り場を
『港区誌』には次のように書かれている。
「21年5月、名古屋市は5大盛り場計画を発表し、その該当地の一つとして、それまで陸軍倉庫や高射砲陣地のあった港区千年二の割(旧港陽町一帯)を予定した。国から名古屋市への用地払い下げに曲折はあったものの、23年11月、特殊飲食街港陽園が完成し営業が始められ、30年初頭まで大いに繁栄した。
25年12月7日設立の財団法人名港発展協会は、この計画に関連して設けられたもので、港繁華街の建設等臨港地帯一帯の文化向上と福利厚生を図ることを目的としている。」
しかし『戦災復興誌』収録の『名古屋市復興計画の基本』〔昭和21年(1946)3月発表〕では「盛り場は大須の復活、金山附近、大曽根附近又は名古屋駅西等に設置の予定」となっており、「等」に港陽園が含まれているのかも知れないが、5大盛り場計画は見当たらない。
だが、この地域の「港第2工区」の解説では、「戦後、名古屋港の発展は、その背後地の築地口付近の整備にあるとして、港地区の盛り場計画をもっていた本市が、……中略……本事業によって公園及び街路を整備した。」と書かれ、どのような盛り場を想定していたかは不明だが、盛り場を造ろうとしていたようである。
◇3遊廓が移転 → 港陽園
戦災復興計画より早く、昭和20年(1945)の終戦後、ここへ旧稲永遊郭・港楽園・新陽園にあった遊廓が、名古屋港に近く交通の便が良いので移転してきた。
稲永遊郭は熱田遊廓が明治45年(1912)に稲永新田に移転してでき、最盛期の昭和8年(1933)には貸座敷(妓楼)が57軒あり537人の娼妓がいた。戦争が激しくなるにつれ客が減り、愛知航空機などの軍需工場で働く人々の合宿所や寮に転用されていた。
港楽園は港陽園の西に位置し、昭和12~3年(1937~8〕頃は港連という芸妓置屋の団体ができていた。15軒余の置屋があり30数人の芸妓が抱えられていたという。
新陽園は堀川を挟んだ東の道徳にあり、終戦後に発展した。昭和20年(1945)12月には中部日本新聞(現:中日新聞)に芸妓500名などの募集広告をしており、進駐軍の兵隊なども遊びに来て「パンパン屋」と呼ばれる店が散在していた。
港陽園には、21年(1946)5月17日に私立の港陽園(旧新陽園)診療所という、働く女性たちの診療所も造られた。
◇港陽園の繁栄
『名古屋南部史』には港陽園を次のように記録している。
「電車通に面する大門を入った中央通を中心に街道碁盤の目のごとく縦横に通じ、家には多少の大小はあるが、いづれも同じような和洋折衷風の2階造りで軒を並べている。さすがに新設の歡樂園だけあって整然として心持がよい。稻永遊廓が既に歴史上の遊廓となってしまった後のことで、港陽園は港の歡樂郷として名高い所となっている。
昭和22年(1947)末頃における特殊カフエー業者は23軒、給仕婦105名を示していたが、約1年後には業者25軒、給仕婦155名に増加し、最近に至り業者約80軒、給仕婦約300人の多数を数へるという發展振りである。」
一時期繁栄した港陽園だが、昭和33年(1958)の売春防止法完全施行により姿を消した。
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