津金文左衛門が開発
広大な熱田前新田

 遠浅の熱田の海は堤防を築いて干拓新田を造るのに適していた。
 江戸時代になると藩営や民営で干拓が繰り返され、海岸線は沖へ沖へと後退していった。江戸時代後期には広大な熱田前新田ができ、熱田の海はすっかり姿を変えた。




 江戸時代の日本で、一番大きくまた重要であった産業は米作だ。江戸は金本位制、大阪は銀本位制だったと言われるが、日本は米本位制だったという考えもある。国の経済力も武士の給料も「石」という米の量で表示していたから、米本位制という意見ももっともである。
 米がそれほど重要な役割を持っていたから、その収穫量を増やす事はどの藩にとっても大きな課題だ。新田を開発する事は、今の大規模工場の誘致や新産業の育成に匹敵する。

 尾張藩も新田開発に力を入れてきた。熱田の海は木曽川・庄内川が運んできた土砂が堆積する遠浅の海だ。船の航行には不便だが、干拓して農地にするには都合が良い。

 開府の頃、百曲街道(今の国道1号あたり)より南はほとんど海だったが、江戸時代を通じて沖へ沖へと干拓が繰り返された。干拓するとその地先の海に年々土砂が溜まり浅くなってゆき、50年、100年経てばまた干拓できる状態になるからだ。
 開発は、藩によるものと、許可を得て町民や農民が行うものがある。熱田の海の大きな新田は熱田新田と熱田前新田で、藩による開発だ。熱田新田は開府から37年後の正保4年(1647)に築造され、3,841石(後には、4,560石)という広大なものである。


「大正昭和名古屋市史」に加筆

 それから約150年後の寛政12年(1800)7月に、熱田前新田の工事が始まった。担当したのは熱田奉行の津金文左衛門で、予算は1万両だ。翌享和元年(1801)1月に完成している。
 文化2年(1805)に検地が行われ、翌年から入植者に売却が始められた。弘化4年(1847)には366戸が有った。


村絵図 天保12年(1841)


1/50000 明治22年測図




 2023/04/13