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昭和20年(1945)12月3日の『中部日本新聞』に芸妓募集広告が載っている。
至急募集として、芸妓500名と仲居・売店売子・バー女給、それぞれ十数名となっている。募集したのは観音山前 新陽園事務所だ。
戦争が終わってまだ3か月半しかたってなく、名古屋は一面の焼け野原で、住む家にも食べる物にも事欠いていた時代である。道徳もほとんどの区域が焼け野原になっていた。
500人の芸者の需要があるとは考えにくく、実際は娼妓の募集であろう。
この年の9月26日に進駐軍の先遣隊が名古屋に上陸し、10月26・27日に45,000人の本隊が上陸して進駐した。それから1月後の芸妓募集は、一般女性を守るための慰安所開設のためではないだろうか。この広告と並んで万能社名古屋出張所(昭和区)が「日米親善 女子従業員募集、16才より35才まで 委細面談」の広告があり、この業者はこの月だけでも数回掲載している。また、月末には名楽園(中村遊郭)が娼妓と通訳の募集広告を出している。
『道徳の昔と今』によると昭和21年(1946)頃 観音町・泉楽通に遊郭ができたと書かれている。
また『道徳の昔と今をたずねて』には、次のような思い出話が載っている。
【福島政秋さん(大正9年生)の思い出】
「戦後、観音町の方にパンパン屋が何軒かできた。泉楽通のここに4~5軒あった。昔の警察の寮の場所もパンパン屋があった。進駐軍が遊びに来たと思う。パンパン屋は今でいう遊郭であった。港の方に幸楽園(港楽園の誤植)と名前を変えて行ったと思う。パンパン屋の名前は覚えていない。1軒の中に小さい部屋がいくつかあった。終戦当時にすぐできたと思う。終戦後にぎやかになった。ここの遊郭の女の人の病院のようなものがあった。人間の修理所があった。病院ではなかった。遊郭の人が病気になった時に行ったと思う。」
【石原きぬさん(大正10年生)の思い出】
「北町におって私たちも親にこしらえしてもらって(嫁入り道具を持たせてもらって)出てきとるもんだから、赤い長じばんやいろんな色の長じばんがあったの。それをあそこの遊郭が値えよう買ってくれるの。好まれなかったから、こんどは築港の方へ越してかれたんでしょう。」
【後藤鉦さん(大正9年生)の思い生出】
「戦後、六条町に2~3軒の大人の遊ぶ旅館(パンパン屋)ができた。その後に港のほうに移って行った。歓楽街がこのへんにあった。」
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