道徳前新田の地主は転々と変わった。鷲尾善吉が開発し、尾張藩へ譲渡され、さらに大正の終わりには徳川家から名古屋桟橋倉庫へ譲渡された。名古屋桟橋倉庫は農村だった地域を市街地へ変身させるため、大規模な都市基盤整備と計画的な街づくりを行い、現在の街の姿が形づくられた。 |
道徳前新田 徳川家から名古屋桟橋倉庫へ | 道徳前新田をニュータウンに |
道徳前新田 徳川家から名古屋桟橋倉庫へ |
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道徳前新田は文政4年(1821)に、塩田村(現:愛西市)の豪農である鷲尾善吉が開発した。しかし、たび重なる災害に維持しきれず、藩の御小納戸(中奥に詰め藩主の身近な雑務を処理する役)へ譲渡した。 これにより明治になると道徳前新田は徳川家の所有地になった。 その後、大正14年(1925)8月に、名古屋桟橋倉庫(株)が徳川家から道徳前新田の土地(273,290坪=90.2㏊)を譲り受けている。 ◇「投げ出しの尾張候」德川義親(よしちか) 広大な道徳前新田の土地を、どうして尾張德川家は売却したのであろうか。 その頃の当主は、德川義親であった。明治19年(1886)に元福井藩主の松平春嶽の5男として生まれ、41年(1908)に尾張徳川家の婿養子になり、同年に養父の義礼(よしあき)が亡くなり当主となった。義親は東京を生活の拠点としており、大曽根にあった本邸(現:德川園など)は不要になった。また、代々伝わる美術品等や経営している事業の取り扱いをどうするかが課題であった。 43年(1910)から什宝の調査と目録の作成が始まり大正4年(1915)に完了した。大正10年(1921)に重複品や不要品など一部を売却し、それを資金にして昭和6年(1931)に財団法人徳川黎明会を創設し10年(1935)に徳川美術館を開館している。 また徳川家は明治33年(1900)から私立明倫中学校を経営していたが、大正8年(1919)に愛知県へ附属博物館も含めて移管した。先祖の墓地も、各地の寺にあったのを掘り起こして火葬し定光寺に造った納骨堂へ集約した。 土地については、明治11年(1878)から生活に困窮する旧藩士を救済するため、北海道の八雲へ入植させて德川開墾地を経営していたが、45年(1912)に75戸へ923町(915㏊)余を無償譲渡して自作農として独立させている。大正6年(1917)には樋之口町の土地(筋違橋東、新御殿跡)を処分したのをかわぎりとして、次々と売却や寄付をしていった。その一環として道徳前新田の売却も行なわれたのである。 このように義親は資産の処分を積極的に行ったので「投げ出しの尾張候」と呼ばれるようになった。昭和51年(1976)に89才で亡くなっている。 ◇名古屋桟橋倉庫(株) 名古屋桟橋倉庫は『大正の名古屋』によると、大正9年(1920)3月に設立され、資本金は360万円の会社である。 大正11年(1922)の時点では、福沢桃介が筆頭株主で19,000余株、2番が下出民義で10,000株となっており、五号地で南陽館や熱田電気軌道などを経営している山田才吉も3,000株弱を所有している。社長は下出民義で、取締役に福沢桃介や山田才吉などが加わっている。 福沢桃介は諭吉の婿養子で、様々な事業を手がけ名古屋電灯や大同電力などの社長も務めて電力王と呼ばれた人物である。下出民義は石炭商として成功し、その仕事の関係で桃介と知り合い親密な関係となり、コンビで電気事業などで活躍していた。 名古屋桟橋倉庫を設立した頃は、桃介が名古屋電灯などの社長、民義は名古屋電灯の副社長などをしつつ名古屋市会議員でかつ衆議院議員であった。 設立時の本社は中区西松枝町(鶴舞公園の北、現在の中電千代田ビル?)、昭和3年(1928)頃は中区新柳町6丁目の東邦電力(名古屋電灯の後身、中部電力の前身)名古屋支社内、昭和39年(1964)頃の会社登記簿閉鎖時は南区七条町3丁目(現:道徳ポンプ所の西付近)に置かれていた。 この会社は福沢桃介が率いる名古屋電灯とその関係者が経営する会社であった。 |
道徳前新田をニュータウンに |
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◇発展が期待される地域 明治になると名古屋は城下町から産業都市に変わった。初期の頃は旧市街地に工場などが立地したが、名古屋の発展とともに徐々に周辺の旧農村地帯へ進出するようになっていった。これを受けて大正時代になると周辺の村々で市街化へ向けた耕地整理が始まっている。 また工場の増加で労働市場が拡大し、工場勤務の方が、農業を行うより収入を得やすい状況も生まれ、農地への執着も少なくなっていた。 道徳前新田は、明治40年(1907)に開港場となった名古屋港のすぐ東に位置し、大正13年(1924)に都市計画決定された運河網計画では山崎川の運河化が計画され、新田内には堀川・山崎川連絡運河の建設が予定されている。 近い将来大きな発展が期待される地域が道徳前新田であった。 |
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◇都市基盤が全くない地域 大正14年(1925)に新田の地主である徳川家は、道徳前新田を耕作していた小作へ鍬先料(小作が耕作権を放棄する補償金)を支払い、小作はそれを原資にして自分の住んでいた宅地を購入した。 残された土地を名古屋桟橋倉庫が徳川家から購入して開発を始めたが、宅地として使用できるように都市基盤を整備しないと分譲できない。 道徳前新田は農地として開発されたので、東端の道徳新田堤防沿いに民家が建ち並んでいる外は一面に田が広がっていた。 道路は非常に貧弱で、『南区の歴史ロマンをたづねて~旧街道のなぞに迫る~』には次のように書かれている。 「道徳前新田の田んぼの真中を通る道を古老は中道と呼んでいました。人一人がやっと通れる道で大八車も通れなかったそうです。道徳前新田は舟が通れる用水路は何本もありましたが、道らしい道はなかったそうです。」 |
1/25,000 大正9年 |
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◇基盤整備から販売まで 一貫して実施 このような状態なので、単に田を埋立てて宅地造成するだけでなく、都市として必要な基盤整備から行わなければならなかった。 この頃、他の地域でも盛んに都市化へ向けた土地区画整理が行なわれているが、それらは道路や排水路などの整備で終わり、その後の宅地販売や街づくりは各地主や新住民の成り行き任せであった。この道徳前新田は名古屋桟橋倉庫がほとんどの土地を所有しているので、全体構想を立てて理想的な街づくりを行うことが可能であった。また土地の分譲も会社が直接行い販売促進策もとっている。 |
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分譲が始まって少し経過した昭和3年(1928)の「道徳新町経営計画概要」を見ると、次の方針で整備を行っている。 ・道路……南北に8本、東西に23本整備し、 盛り場以外は直線道路 ・堀川・山崎川連絡運河……完成したら周辺は倉庫街に整備 ・公園……道徳公園のほか小公園を4か所 ・盛り場……映画館などは人家が相当できてから。 当面は料理店や芸者置屋、温泉旅館などを整備 地上108尺(32.4m)の大観音像を建設 ・排水設備……現在は30馬力の電動ポンプで排水。 宅地に造成されてゆくと不十分なので、 100馬力のポンプ2台と10,000坪の溜池で対応。 当局は低湿地なので家屋建築をかなり問題視 したが、調査して了解 |
1/50,000 昭和7年 |
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分譲地は25坪と50坪で、売れやすくするため土地代金は月賦払いも可能。家屋の建築資金も最高2,000円まで貸し付けて15か月の月賦で返済する制度を設けている。 分譲地の面積は総計150,000坪(49.5㏊)で、昭和5年(1930)までに分譲を終え、3~5年以内に家屋の建築を義務付けているので、10年(1935)には5,000戸で25,000人が住む街にする、という計画であった。 盛り場計画にある温泉旅館が泉楽園で、観音像は観音公園の北に造られた。 |
2023/10/19 |
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