山崎の戦い
犬飼秀長の腕塚

 安井の領主であった犬飼氏は、戦国時代になると信長・秀吉の配下となり活躍した。本能寺の変後、秀吉が京都の山崎で光秀と戦ったときに、秀吉方の一員であった犬飼秀長は腕を切り落とされ、故郷へ帰り腕を埋葬した。その塚が大正時代まで残されていた。




 現在アピタが建っている所に、かつては山崎の戦いで犬飼秀長が切り落とされた腕を埋葬した腕塚があった。犬飼氏は安井の豪族で、南北朝時代の康暦元年(1379)12月に戦功に依って安井を領有するようになった。少し西にあった安井城主の浅野氏とは同族であったと言われている。

◇山崎の戦い(天王山の戦い)
 子孫の秀長は永禄8年(1565)に信長に出仕し、天正10年(1582)に羽柴秀吉の配下となって毛利攻めに参加した。そのさなか、6月2日に本能寺の変が起き信長は明智光秀に討たれた。備中高松城(現:岡山市北区)を水攻めにしていた秀吉たちは,知らせを聞いて4日に講和を結び急遽京へと帰って行った。これは「中国大返し」と呼ばれている。13日に大阪から京都への入口である山崎(現:京都府大山崎町)で明智軍と激突し(山崎の戦い 天王山の戦い)、光秀は居城の坂本城を目指して落ち延びる途中、農民の落ち武者狩りにあい竹槍で突き殺されたという。

 犬飼秀長はこの間秀吉の配下で行動し、秀吉の影武者役も務めたとも言われている。山崎の戦いで右腕を切り落とされたがなんとか一命を取り留めた。

◇秀長 故郷へ帰り切られた腕を埋葬
 故郷の安井村に帰ってきた秀長は切られた腕を辻村西端の葭原に埋め、武士を止めて山伏となって隠棲したという。

 腕塚は『西春日井郡誌』(刊:大正12年)に「萩野村大字辻字池ノ内に在り。水田中の一小丘とす」と書かれ、その頃はまだ存在していたが、今はアピタが建っている。




 2026/02/15