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味鋺の稲置街道沿いに首と胴体に亀裂が入ったお地蔵さまが祀られ、首切り地蔵と呼ばれている。 このお地蔵さま、郷士の家で働く女中を主人が怒って切ったときに身代わりとなって切られ、その傷跡が亀裂だとの伝承が伝わっている。 |
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新地蔵川に架かる伊勢山橋の南にある四つ辻の西北に2つの祠が建っている。東の祠にはお地蔵さま、西の祠には味鋺神社から迎えたお礼がまつられている。 ここにまつられているお地蔵さまは、ほかの地にあるお地蔵さまとは異なっている。3つの部分を接ぎ合わされているのだ。首から上の部分、そして体の部分は2つに切断され、3つの部分が接着されている身長90㎝ほどのお地蔵さまである。年月を経て顔の部分は磨滅をして、目も鼻も口も定かではない。 いったい、石のお地蔵さまを誰が切断したのであろうか。 『名古屋市楠町誌』によると台石に「文政」(1818~1830)の銘と「五左衛門」の文字があるという。 首切地蔵と呼ばれるようになった由来は、次のようである。 お地蔵さまがまつられているのは、味鋺の一ノ曽だ。この地に郷士(ごうし、農民で武士の待遇を受けている者)の一の曽五左衛門という者が住んでいた。 五左衛門の家には女中がおり、深くこの地蔵を尊信し、朝夕参拝していた。女中がある日失敗をしたので主人の五左衛門は非常に怒り、夜女中が寝ているところを一刀のもとに切りつけた。確かな手応えがあったので五左衛門は自分の部屋に帰り何食わぬ顔をして寝ていた。 翌朝、女中はいつものように早く目覚めた。いつものようにお地蔵様の参拝にゆくと、お地蔵様が袈裟懸けに切られていた。 驚いて帰宅し、五左衛門にこの事を話すと非常に驚き自分の行いを後悔して、その後は一家揃ってこの地蔵を信心するようになったという。 稲置街道(小牧海道、木曽街道)の際で味鋺の集落北外れに建つこのお地蔵さまは、200年の間地域の人々によって大切に守られてきた。明治10年(1877)頃、西方寺境内へ移転したところ悪疫が流行し、神夢により元に戻すよう霊感があったので旧地へ安置したとのことである。 今も旧暦の7月24日にはお祭りが行われているという。 |
![]() ![]() ![]() 『味鋺村絵図』 |
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