水害に泣かされた
上飯田村

 矢田川の南に位置する上飯田村は、水害に泣かされてきた村であった。村絵図を見ると、決壊して砂入になってしまった耕地がある。古記録には年々矢田川の川底が高くなるにつれ田の湧き水が増え、低温障害で稲が実らなくなったことが書かれ、村の人口は6割に減少してしまっている。


    村絵図から見る 上飯田村    明和の洪水   字名に残る洪水の痕跡
    人口が大きく減少    



村絵図から見る 上飯田村
 村絵図を見ると上飯田村は矢田川との戦いの村だったことがよく分かる。

 村の北部には「字古堤」という字が東西に延び、その北は「字中川原」になっている。西隣の辻村にも羊神社の境内などを通る「古堤通本田畑」が記載されているが、かつての矢田川自然堤防が辻村から上飯田村へと伸びていた痕跡である。

 右下には山田村に食い込んで上飯田村の畑があるが、そこの字名は「矢田川原」だ。堤内地でありながら川原となっているのは、かつて矢田川はこの所を流れてここは堤外地だったからである。
 矢田川は昔より北へ流れを変えているのだ。ここと「字古堤」の間、六所宮の北東に集落があるが、昔の自然堤防だった微高地に人々が住みついたのである。



[上飯田村絵図」 弘化3年(1846)



現在の地形 5mメッシュデジタル地図で作製
6~11mで色分け




明和の洪水……矢田川は古川と新川
 村絵図を見ると、矢田川の所には「古川通」「新川通」の二つの流れが描かれている。

◇明和の洪水(1767)……矢田川の流れが二手に → 古川通の流量が減少
 江戸時代中期まで、矢田川は守山丘陵の先端に建つ長母寺(現:東区)の南を大きく屈曲して上飯田村に近い古川通を流れていた。明和4年(1767)7月12日、3日間降り続いた大雨により増水した流れは長母寺北の鞍部を乗り越えて流れるようになり、猪子石(現:千種区)では堤防が決壊して濁流が大幸川に沿って西へと流れて大水害(明和の洪水)を引き起こした。これ以降、矢田川の流路が北へ変わり主に新川通を流れるようになったのである。

◇天明6年(1786)、御用水からの取水口……矢田川からの取水を補う
 山田村との境界に古川通から取水する用水杁が描かれ、そこから西や南へ何本もの用水路が延びている。この用水は上飯田村と下飯田村を灌漑する重要な水であった。
 また、御用水の矢田川伏越を出たところ(御用水杁=桝形)から取水する用水も描かれている。この用水は、後に上飯田用水と呼ばれた。北区の地形は東から西へ低くなっており、御用水が開削されたことでそれより西の地域は従来の用水から分断され水源がなくなってしまった。このため、御用水開削の時に御用水から農業用水を分流するように変わっている。しかし上飯田村は御用水の東の地域なので影響は受けなかった。それなのに、なぜ御用水から分流する用水を造ったのだろうか。

 この取水口が造られたのは、御用水開削から123年後の天明6年(1786)の事である。桝形の所に幅2尺5寸(75㎝)高さ2尺(60㎝)の取水口を造り、用水路を掘って上飯田・下飯田・杉村の灌漑をするという事業であった。明和の洪水(1767)以後、矢田川は北寄りの新川通が主な流路になり、古川通の流量が減って上飯田村と山田村の境で古川通から取水していた用水は十分な水が得られなくなってしまった。このため、御用水から分流する用水を造って補充したと考えられる。矢田川の水害が新しい用水の開削をさせたのである。




村絵図に残る洪水の痕跡
 洪水に見舞われたことは字名に記憶を残している。「字砂田」「字砂入」は洪水が運んできた土砂が堆積したことから付いた地名である。

◇文政13年(1830)の洪水
 さらに村の北東、御用水杁(矢田川伏越出口)の南の地域は、絵図に白色が上塗りされている。凡例を見るとこの色は砂入の所である。なぜここに広い砂入の地域があるのだろうか。

 『松濤掉筆』に文政13年(1830)7月18日の出来事として次の記述がある。
 「寅七月十八日朝より強雨。昼ニ至て益降ル。誠に盆を覆すか如しとハ此事なるへし。雷鳴も有之候。八時分ニ及て聊(いささか)静ニ降様ニ成ル。去共、終日降通し、夜ニ入ル。八半比より川々出水。暮過ニ至て、辻村伏越水筒之杁所より吹切ニ成。(御用水ノ源也。)・・・・中略・・・・辻村切所跡之巾十間程之旨・・・・中略・・・・中納言様より早く留よとの御気色も被為在、旁、枇杷島村詰所より直ニ御勘定奉行衆御両人・御普請奉行衆御両人御詰被成候て、昼夜裁許被成候旨。依之、下役中も付添、不寝ニ被相働候旨。海用留(みよどめ)出来。廿日ニ引取被申候よし。堤通り之跡ハ迚(とても)も留らぬ故、川方へ懸廻し、水除を築廻しニ相成候旨。是ハ切所田面より川底か高き故なり。」

 概略次の内容である。
 朝からお盆をひっくり返したような豪雨となり、夜まで降り続いた。八つ半(午後3時)頃からあちこちの川が増水し、夕暮れ後にはとうとう矢田川伏越のゲートの所で堤防が10間(18m)ほど切れてしまった。
 藩主11代斉温(なりはる)〕から「早く留めよ」との指示もあり、勘定奉行と普請奉行が現地に行き徹夜で作業を進め、20日には完了して引き上げた。矢田川は天井川なので、切れた堤防のところは滝のように水が流れて来て土嚢を積んで留めることが出来ず、川のなかに積んで水を留めた。

 明和4年(1767)に矢田川が猪子石(現:千種区)で決壊(明和の洪水)して以来の大災害であった。濁流は西へ流れてお城の西の上宿や押切などは浸水し、19日八つ(午後3時)頃は幅下から枇杷島までの間の深い所は股まで水があり舟で通行した。19日は晴れたことと、明和の洪水後、天明4年(1784)に大幸川が堀川につなぎ替えられて上流部の水は堀川に流すように変わったこともあり前回より被害は少なかった。

 村絵図が描かれたのは、この水害から16年後のことである。堤防が切れた伏越の南地域は、天井川の矢田川に積もった土砂が大量に流れ込み、描かれた頃はまだ撤去できないままになっていたのである。




人口が大きく減少
 上飯田村は江戸時代に大きく人口が減少した。北区内(庄内川以南)の11村の中で、田幡村に次いで大きく減っている。1600年代半ばに編纂された『寛文村々覚書』では、家数が46軒で人口は403人となっている。一方1800年前後に編纂された『尾張徇行記』では、家数は54軒に増えているものの、人口は251人と6割に減っている。
 江戸時代の多くの村では、人口がほぼ横ばいだ。北区内で人口が増えた村は街道沿いで、農業以外に小商いなどを行って収入を得る事ができる村である。純農村は減少しているが、以前調べた中村区内の村に比べ減少率が大きいことが目立つ。



◇矢田川の流砂堆積 → 湧き水の増加 → 潅漑水温低下 → 不作 → 人口減
『尾張徇行記』には上飯田村について次の記載がある。
 「近来矢田川沙(砂)高ニナリシ故、処々ヘクヽリ(くぐり)水涌出立毛(たちげ)青ケル所多クナレリ。」
 近年、矢田川では土砂の堆積が進んで川底が高くなった。その結果、川底にしみこんだ水が村のあちらこちらで湧き出している。このため稲などが黄金の実りをもたらさず青いままの所が増えてきたということだ。

 湧き水があれば潤沢な水が田を潤して良いように思われるが、地下水は水温が低いので稲の生育不全を引き起こす。明治期に北海道の開拓地では、冷涼な気候で川水の水温が低いため、用水路の途中に池を設けて水を滞留させ太陽熱で水温を上げる工夫がなされていたほど冷たい水は稲の生育に害があった。
 上飯田村は田の近くで湧き出した水なので、水温を上げる事ができないまま田に流入し不作となってしまったのだ。南隣の下飯田村も同様に大きく人口が減少しているが、この村も字名に「上川田」があり、湧き水の被害を受けていたようである。

 過去の水害により田に砂が入って土壌が劣化し、それに加えて年々湧き水が増えることで田の生産力が低下していったことが人口減を引き起こしたのである。





 2025/09/19