古代から繁栄 水害には泣かされた
味 鋺 村

 味鋺村には古くからの寺院や古墳があり古代から繁栄してきた地域である。
 庄内川に面しているので農業用水が得やすいことが繁栄の元になったが、反面庄内川の氾濫に何度も襲われてきた村でもある。


  豊かな水で 古代から開けた地域   水害に泣かされた地域   嘉永3年 水害の様子



豊かな水で 古代から開けた地域
 味鋺村は全域が藩の家老である竹腰の知行地であった。江戸時代後期に編纂された『尾張徇行記』によると、石高は2,921石余(他に新田あり)で、田畑が175町8畝14歩(173.6㏊)だが、その内 田が162町5反3畝23歩(161.2㏊)で93%を占めていた。北隣の味鋺原新田とは対照的に味鋺村は用水を得やすい地域であった。村の東北部には松林が、耕地面積より広い230町(228㏊)あり未開発で残されていた。

 稲作農業に適した土地なので古くから開発され、『延喜式神名帳』(編纂:927年)に掲載されている味鋺神社や、行基が創建した護国院など古くからの寺社がある。

 江戸時代後期の村絵図では集落は稲置街道(小牧海道、木曽街道)沿いにあり、昭和30年(1955)頃は東部に住宅が建ち始めているが、旧集落は大きくは変わっていない。


『味鋺村絵図』 天保12年 (1841)

 
『名古屋市楠町誌』 昭和32年(1957)刊



水害に泣かされた地域

 味鋺村は庄内川に面しているので水害を受けやすく、村絵図には八田川合流点の北西と洗堰の北東に「砂入」と書かれた区域が見られる。これは洪水により耕地に砂が流入堆積している場所である。

 『尾張徇行記』には次の記載がある。「勝川堤決壊砂入ノ地高212石7斗4升6合、此田11町9反5畝23歩 文化7午年ヨリ三役銀年限ヲ以テ除ニナレリ」
 庄内川の決壊で11.9㏊の田が砂入になった。村の田のうち7.4%が耕作不能になってしまったのである。このため文化7年(1810)から三役銀を一定期間免除したという内容である。三役銀とは夫銀(ふぎん、土木工事に使う人夫賃)・堤銀(つつみぎん、堤防工事に使う費用)・伝馬銀(てんまぎん、宿場や伝馬制度維持に使う費用)で、藩の直轄地だけでなく藩士の知行地も藩に納入する義務があった。三役銀のほか、知行主の竹腰氏に納める年貢も減免されたと考えられるが、記載はない。

◇3年に1度は不作
 『名古屋市楠町誌』は、この地域の水害に関し次のように記録している。

 「庄内川を始め、大山川、八田川と三方河川に囲まれており、特に庄内川は、右岸は左岸に比し頗る脆弱な堤防であつたため、洪水の際は度々破堤して、田畑の流失は勿論、家屋の流失、或は浸水による調度、食糧の困窮等枚挙にいとまがない程の記録である。……中略……本町としては、度々の水災に苦しんだ。3年に1度は不作もやむを得ないと、諦めていたと云う。……」

 これに続き、18ページにわたり、主に江戸時代から昭和28年までに見舞われた災害を記録している。
 主な水害として
・寛文3年(1663)4月……字生棚付近で破堤。土砂流入し美田が荒野に
・宝暦7年(1757)5月……3か所で435m破堤。田畑59.5㏊が砂入。家屋は床上浸水
・明和4年(1767)7月……生棚や岩谷堂などで破堤。人家流失、田畑荒廃
 明和の洪水後に洗堰が完成したのでしばらくは安泰になった。しかし、その後庄内川の河床が上昇したのでふたたび水害が続発した。嘉永2年(1848)、安政2年(1855)、明治元年(1868)などに被災している。

 大規模な住居移転もあった
 「然し当時は、庄内川の氾濫が累年災をなし、味鋺、如意及び大蒲、喜惣治両新田の地は3年に1度は不作に見舞われたと云う。そのため如意、味鋺の両村は明和年間前後してやゝ高地である現在地に、大移住が始まつたのである。」
 水害の多さに耐えきれず、少し高台の地へ大規模な集落移転があったということだ。明和4年(1767)の水害で人家流失が起きているので、その復興の中で移転したのだろうか。



嘉永3年 水害の様子

◇農地を覆った土砂は1.5m

 嘉永3年(1850)8月3日の洪水は次の様子だった。

 「3日から5日間雨が降り続き、庄内川の堤防が東八龍社のところで切れた。
 天井川である庄内川の激流は、川底の砂とともに堤内地へなだれ込み、その激流が直撃したところは田畑がえぐられて堀のようになり、砂は北は護国院付近、南は庄内川の堤防、東は東八龍社の東、西は西八龍社付近まで堆積した。田畑を覆った砂は多いところは厚さが5尺(1.5m)、少ない所でも1尺(30㎝)もある。」

 旧暦の8月なので今の9月、稲が実りの秋を迎える時期である。砂が覆った田や畑の収穫は全く望めない。
この前年の嘉永2年(1849)も8月1日に洪水が発生し、「作物はほとんど腐った」と記録されている。
 さらにその前年の嘉永元年(1848)は、5月24日以降84日間雨が降らず大干ばつに見舞われ、「生物は枯死し、作物は枯凅(ここ)し被害は甚大であった」と書かれている。3年連続で大災害に見舞われた人々はどのようにして糊口をしのいだのだろうか。その記録は見つからない。
 嘉永3年の時は比良(現:西区)でも破堤し、味鋺以西の村々はいずれも浸水被害を受けたという。

 砂入になった土地は、そのままでは農業を行えず除却しなければならない。パワーシャベルやダンプカーがないこの時代、鍬で掘ってもっこで担いで少しずつ運び出すしかなく、復旧には長い時間と大変な人手を要したことであろう。


嘉永3年(1850)8月の洪水 砂入の状況(庄屋から勘定所と大代官に提出した被災状況の図面)
『名古屋市楠町誌』





 2024/11/17