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味鋺村は全域が藩の家老である竹腰の知行地であった。江戸時代後期に編纂された『尾張徇行記』によると、石高は2,921石余(他に新田あり)で、田畑が175町8畝14歩(173.6㏊)だが、その内 田が162町5反3畝23歩(161.2㏊)で93%を占めていた。北隣の味鋺原新田とは対照的に味鋺村は用水を得やすい地域であった。村の東北部には松林が、耕地面積より広い230町(228㏊)あり未開発で残されていた。
稲作農業に適した土地なので古くから開発され、『延喜式神名帳』(編纂:927年)に掲載されている味鋺神社や、行基が創建した護国院など古くからの寺社がある。
江戸時代後期の村絵図では集落は稲置街道(小牧海道、木曽街道)沿いにあり、昭和30年(1955)頃は東部に住宅が建ち始めているが、旧集落は大きくは変わっていない。
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