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井上士朗は、大光寺の東南に居を構えていた。 本業の医師をする傍ら、名古屋俳諧の中核として蕉風復興運動で活躍していたのである。 |
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1800年前後に蕉風復興運動で活躍し、「尾張名古屋は士朗でもつ」とまで言われた井上士朗の旧居跡。 |
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本業は医師で井上専庵と号して婦人科を得意としていた。 『金鱗九十九之塵』の新町(後の鍋屋町二丁目)のか所に、「当陌在住輩」として俳諧師 枇杷園士朗とその名が挙げられ、庭に名木の赤松があったことや詠んだ句が掲載されている。 『名古屋城下図』(慶応元~2年)には大光寺東側の南北道路に「千庵ヨコ丁」と、士朗の号がついた道路名が書かれており、この道に面して住居があった。 現在、大光寺東南角に説明板と「俳聖 井上士朗 宅跡」と刻まれた石碑が建っている。 |
![]() 『名古屋城下図』 慶応元~2年(1865~6) |
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