尾張水軍の基地
『尾張名所図会』
御 船 蔵
 江戸時代、白鳥庭園がある場所には御船蔵があった。
 ここは尾張藩水軍の船を収蔵する、今の海軍基地のような場所だ。施設の性格上、詳しい様子は記録されていないが、名古屋城と並ぶ軍事上重要な場所だったのである。

    御船蔵   尾張水軍の船   御船奉行
    新造船の試乗   船遊び・パレード  



御  船  蔵
◇陸軍基地が名古屋城 水軍基地が御船蔵
 慶長15年(1610)、名古屋台地の北端でお城普請が始まった。
 陸戦の基地が名古屋城だが、戦争には水軍も必要になる。18年(1613)には、名古屋丸・白鳥丸などを建造し豊臣方との決戦に備えた。

 水軍を指揮するのは「御船奉行」の千賀氏だ。千賀氏の屋敷は納屋橋下流、堀川の東岸にあり、水軍の基地は堀川を通って直ちに駆けつけられる当時の河口にあたる白鳥に設けられた。
 御船蔵は海浜の干潟や葦生であった土地を掘り下げて船が入れるようにし、その土を盛って造成した土地に船蔵を建て水軍の基地を造ったのだ。
 翌19年(1614)10月16日、いよいよ大阪冬の陣にむけ、藩主義直は大阪へ出陣した。尾張藩の水軍も藩船と千賀氏の持ち船などを合わせた10隻が出陣し、他の家康方の水軍と連合して4回の合戦を行い、大きな戦果を挙げた。この時、戦利品として21隻の船を持ち帰り、使用可能な船は藩の水軍に編入している。
 その後、藩船の新造も進められ、大小合わせて30艘余を所有していた。

◇船を蔵に?
 この水軍基地が御船蔵と呼ばれたと聞くと、意外な感じを受ける。今では、船は岸壁に係留されていて、倉庫に仕舞われることがないからだ。しかしここでは蔵に船がしまってあったのだ。

 江戸時代の船は、和船で木造だ。また、ここの船は利用目的から日々使われているわけではない。和船は水密構造ではないので、雨ざらしでは船底に雨水が溜まり痛みやすい。また、水中では船底に貝や藻が付き船の性能を大きく損なうし、木造なのでフナ虫の被害にもあいやすい。このため使わないときには陸揚げして蔵の中に保管したのである。
 船は陸に揚げると非常に大きい。佐渡の宿根木で千石船を復元し展示しているが、舳先の高さは6m以上あり、家ほどの大きさだ。藩の船はそれ以上だから、蔵は3階建てくらいの大きなものになる。平屋建てが普通だった当時の人の目には、巨大な船蔵が建ち並ぶ景色はさぞかし壮観だったと思われる。

(参考) 今も残る長州藩の御船蔵

外 観

内 部
◇明治維新後 廃止
 安政の大地震(1854)で御船蔵は大きな被害を受け、「御船藏中餘程之損所有之」と記録されている。

 明治維新後に尾張藩水軍はなくなり、跡地は貯木場となって長く使われてきたが、平成3年(1991)に白鳥庭園となって、御嶽山から伊勢湾へと流れる木曽川の姿に見立てた池泉回遊式庭園が造られ、この地と木曽のつながりを今に伝えている。
 また、白鳥公園には、昭和42年(1967)に建立された白鳥御材木場・御船蔵跡の碑がある。


御船蔵跡の碑



尾張水軍の船
◇本来は軍艦だが、御座船(豪華客船)も
 水軍の本来の役割は、戦いをすることだ。このため船は、舷側は厚い板などで防備し狭間を設けて鉄砲や火矢などを打ち出せるような戦闘用の設備を設けたものであった。
 しかし、元和偃武(1615)から平和な時代が続き、船は海上警備や取り締まりなどとともに、諸侯などが七里の渡しや三里の渡しを通航するときの送迎などに使った。このため船も貴人の乗船に合わせた豪華な御座船が大小何艘もあった。船室には一流画家により襖絵が描かれ、細かな細工の飾り板が取り付けられたものが造られた。

◇尾張水軍の船
 尾張藩の水軍が所有していた船は時代により少しずつ異なるが、『袂草』に記録されている天保6年(1835)に熱田沖で行った軍事演習の時に出船した船は次のとおりだ。
 ・関船(一番大型の船)
   俊剛丸・大坂丸・大野丸 (大坂丸・大野丸は、冬の陣の戦利品)
 ・御召御座船
   彩鷁(さいげき)丸・明石丸・白鳥(はくちょう)丸・名古屋丸(明石丸は冬の陣の戦利品)
 ・御召小早船(スピード重視の船)
   資始(しじ)丸・朝日丸・四天丸
 ・御次小早船
   本王丸・従如丸・光陰丸(本王丸は冬の陣の戦利品)
 ・並御座船
   菊栄丸・利渉丸・日吉丸・運剛丸・千歳(せんざい)丸
 ・浅瀬御召船
   常磐丸・牡丹丸・一葉丸・一鷲(いちじゅ)丸
 ・御召鯨船
   兎丸
 ・その他
   櫓が8挺の船7隻、6挺の船2隻

 宝暦7年(1757)に焼失したのでこのリストにはないが、2代藩主 光友が造らせた、義丸という長さ25間(45.5m)の大型船は、建造に1万両もかかったという。

 『名古屋市史』は1850年頃の主な藩船として、関船7隻、小早舟5隻、浅瀬船1隻、大御座船2隻、中御座船2隻、小御座船4隻の合わせて21隻の名を挙げている。
 これらの船すべてが御船蔵に収蔵されていたのではなく、一部は三里の渡しで来賓に供応するため佐屋に配備されているものもあった。

 また、幕末の文久3年(1864)には、大砲4門を搭載し長さ57間(103.6m)の軍艦をアメリカから買い入れて神力丸と名付けて配備している。

 御船蔵の火災で失われた船もある。
 宝暦7年(1757)7月に、対岸の白鳥で火災が起き御船蔵へ飛び火した。その結果、義丸・名古屋丸・大野丸・泰三丸・俊剛丸・本王丸と3代将軍家光が上洛の時に使った船などを失っている。


御船奉行
 御船蔵は御船奉行の管轄であった。

 奉行の定員は数名で、今の天王崎橋下流に屋敷を構える千賀氏は代々御船奉行を務め、他に熱田奉行が御船奉行を兼務した。軍事面は千賀氏が担当し、熱田奉行は御船蔵に近いことや七里の渡しを通行する諸侯の送迎などで藩船を運航する関係から御船奉行兼任になった。

 弘化4年(1847)の奉行配下には、船軍者1名、船手改役3名、船手与力5名、大船頭8名、船頭10名、船大工3名、水主123名が置かれている。
 水主は船乗りのことなので、言葉からは旧海軍の水兵のように船を操縦したり海戦の時に戦ったりするように感じられる。しかし123名しか居ない。大型船である関船では1隻に大櫓(1つの櫓を2人で漕ぐ)が50丁も付いており、1隻を動かすのに漕ぎ手だけでも100人が必要となる。このため戦闘時には水主は漕ぎ手ではなく、徴発された漕ぎ手を指揮するような役割だったのではないかと思われる。

 『尾張年中行事絵抄』によると毎年1月2日に藩船の乗始式が行われた。
 辰の刻(午前8時頃)に堀川の天王崎あたりに松飾や纏(まとい)、吹貫(ふきぬき、吹き流しに似たもの)などで飾った朝日丸を係留し、御船奉行の千賀氏が藩主名代として乗船し、水主たちは裃(かみしも)を着用して舟唄を歌い様々な儀式をしたという。



新造船の試乗
 江戸時代は今程技術革新が早くなく、屋内で保管されていることもあり船は長期間使用できた。
 しかし木造船なので、年月を経ると老朽化し作り替えが行われ、新造船に旧の船名がつけられることも多かった。できあがった船の試乗の記録も残されている。

 『名陽見聞図会』には、天保4年(1833)6月1日に行った俊剛丸の乗り始め式の様子が絵入りで記録されている。御船奉行の千賀氏や御用人など多くの役人が乗船し、水主の者が舟唄を歌いながら朝に出港して横須賀(現:東海市)付近まで行って夕方帰ったと書かれている。

 弘化4年(1847)6月4日には大坂丸の試乗が行われている。『松濤掉筆』によると次の様子であった。

俊剛丸御修覆御乗初 『名陽見聞図会』
 朝の満潮で出航して夕方の満潮で帰港した。ホラ貝を吹き太鼓を打って、それに合わせて水主が一斉に櫓をこいだ。乗船したのは重臣の生駒因幡守・千賀志摩守(御船奉行)・御側御用人・熱田奉行・御船手下役衆などである。船上で昼食をとり、下の身分の者にも赤飯と酒が振る舞われた。漁船も出て投網で魚を捕りその場で料理した。重臣の石河伊賀守は、前々から乗船したがっていたが体調が悪いので試乗を大幅に延期してこの日に行ったのだが、結局乗船できなかった。



船遊び・パレード
 御座船に乗り、堀川や熱田の浜で船遊びをしたお姫様がいる。聖聡院(しょうそういん)だ。
 聖聡院は9代藩主宗睦(むねちか)の嗣子である治行の夫人で、夫が亡くなり名古屋へ帰ってきた。
 享和2年(1802)9月に惣河戸(現:景雲橋)で御座船彩鷁(さいげき)丸に乗り、31隻の船隊で熱田前新田まで堀川を下っていった。この風景は『御船御行列之図』に描かれて今に伝わり、堀川の長い歴史のなかでも一番豪華絢爛たるイベントであった。聖聡院はずいぶんお気に召したようで、10月にも再び船遊びを行っている。


『御船御行列之図』
 御座船が熱田の浜でパレードをしたこともある。天保7年(1836)9月15日のことだ。
 11代藩主斉温(なりはる)の継室となる福君が、京都から斉温のいる江戸へと嫁入りの旅をした。このときに熱田で藩の御座船を見物している。
 福君は西浜御殿で休憩(昼食)し、それから東浜御殿へ移り御座船を見物した。パレードに参加した船は俊剛丸・白鳥丸・常磐丸・千歳(せんざい)丸・彩鷁(さいげき)丸・牡丹丸の6隻だ。いずれも紋を染め抜いた幕で飾り幟や吹貫をひるがえし、東浜御殿から常夜灯あたりを航行してお目にかけたという。


『名陽見聞図会』



 2021/11/22