この地方特有の
屋根神様
 四間道からすぐ西の、子守地蔵入口に立つ長屋の屋根に屋根神様を祀る立派な社が載っている。西区や中村区などの古い家の屋根に時々見かけるが、この地方独特の祀り方である。

    この地方特有の祀り方   始まった時期は不明   明治以降に増加 今は年々減少



この地方特有の祀り方
 子守地蔵のある路地入口の長屋の屋根に立派な屋根神様の祠がある。唐破風に鳳凰と竜の彫刻が飾られた見事な造りだ。

◇この地方特有 西区は多い
 屋根の上に社を載せて神様をお祀りするのは、この地方独特の形態である。名古屋から岐阜にかけてみられるが、圧倒的に西区が多い。

◇祭神は3柱
 お祀りしてあるのは熱田神宮と疫病に御利益のある津島神社、火伏の秋葉神社の三社が多く、津島神社と秋葉神社はどこも同じだが、熱田神宮の代わりに伊勢神宮や那古野神社などが祀られていることもある。
 かつては町内や組ごとに祀られ、当番の人が毎月1日と15日に屋根に登ってお供えをあげていた。

 屋根に社を設けたのは、人家が密集する下町では適当な土地がなかったからである。





始まった時期は不明
 いつ頃から屋根に祀られるようになったのか、はっきり分からない。

◇おかげまいりのお札降りが関係?
 江戸時代の『尾張名所図会』などには、屋根神様が描かれているのは見当たらず、『画本卯之花笠』にその原型ではないかとも思われる様子が描かれている。

 江戸時代後期に、各地で伊勢神宮のお札が降り、人々が大挙して伊勢に参拝に向かう「おかげまいり」が何回か流行した。

 文政13年(1830)3月にも、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の御札があちこちに降り、高力猿猴庵はその時の様子を『画本卯之花笠』に記録している。
 「其天くだり在せし家毎には、新しく小祠を造り、奉入て神酒を備へまつる事、何国も同じとかや。予が目前に拝せしは、巾下新道辺の町の屋の上に崇奉りて、忌竹、しめをかざり、神灯をさゝげしを、見し侭に其図を爰にしるしぬ。余も是に例して知るべし」。
 お札が降るとその家は新しい小さな社を造り酒などをお供えした。猿猴庵は新道(現:西区)付近で、屋根の上に社を造って祀ってある様子を目にしたので、その様子を記録したのだ。

 市博物館発行の刊本脚注に「(小祠とは)御祓を入れるための小さなやしろ。屋根神との関連性が考えられる」とある。


屋根の祠にお札を祀った
『画本卯之花笠』


明治以降に増加 今は年々減少
◇明治以降に普及
 明治10年(1877)頃から屋根神が普及し始め、30年(1897)頃には全市的に拡がり、大正(1912~)から昭和(1926~)初期にさらに広がったという。

◇「屋根神」の呼称は近年
 「屋根神」という呼び方は、近年になって生まれたものである。戦前に円頓寺付近で育った方は「昔は屋根神さまという言葉は聞いたことがなく、熱田さん、津島さんという祭神の名で呼んでいた。屋根神さまという言葉はいったい誰が考えたのだろう」とおっしゃていた。

◇年と共に減少
 庶民が創建し、その暮らしと密接な関わりを持ち、地域コミュニティの核でもあった屋根神は、年々姿を消していった。
 昭和50年(1975)頃の芥子川律治氏の調査『屋根神さま』によると市内に244社、平成4年(1992)の山地英樹氏の調査『なごやの屋根神さま』によると221社に減っている。21年(2009)の屋根神文化フォーラムの調査によるとわずかに130社を数えるのみで、半数近くの62社が西区にある。

 祀られていた木造家屋が老朽化で取り壊されたり、お祀りをしていた地域住人が入れ替わり、昔から住む方は老齢となって祭祀を続けられなく、廃社されたり地上へ移転したりしている。中橋や五條橋のたもとにも屋根から降りた屋根神様の社がある。


 四間道の屋根神さまはどうなるであろうか。屋根神さまは、白壁の蔵や古い長屋造りの建物と一体となってこの地域の歴史と文化を伝えている貴重な資産であり、何とか残って欲しいものである。





 2022/06/06