堀川沿岸
運漕所がびっしり
 明治になり飛脚に代わり政府がてこ入れした内国通運会社が輸送の基幹を担うようになった。当時の大量輸送は船なので、堀川岸には方面別の運漕所がたくさん置かれ、それに加えて内国通運以外の運漕業者も店を構えていた。
 堀川岸は至る所に運漕所があり、堀川は輸送幹線として大活躍をしている。

    飛脚から内国通運会社へ    堀川岸は運漕所がいっぱい



飛脚から内国通運会社へ
◇江戸時代は飛脚が輸送
 江戸時代の輸送は、幕府や各藩がそれぞれ設置した飛脚が公文書などを運び、町飛脚が武士や庶民の私用の文書や荷物を運搬していた。街道に置かれた宿場には伝馬所(問屋)があり、町飛脚はそこに用意されている馬や人夫を使って輸送をしていたのである。

◇郵便事業 始まる
 明治4年(1871)3月、政府は西洋にならって国が信書の輸送を行う郵便事業を東京と大阪の間で始めた。
 当初は小包は扱わず信書だけであったが、全国各地で永年輸送を担ってきた飛脚屋にとっては大問題である。最初は郵便事業と競い合っていたが、信書は政府の郵便事業に任せて物資輸送に専任した方が良いとの動きが出てきた。政府も「信書の輸送は政府の専任事項であり、飛脚屋が会社を興して貨物輸送に専念するなら保護し郵便関連の仕事も与える」との考えを示した。

◇陸運会社 誕生
 各地の飛脚屋は陸運会社に姿を変え、その元締めとして東京に陸運元会社が明治5年(1872)6月に開設された。駅逓寮(後の駅逓局→逓信省→郵政省→日本郵便㈱)直轄の御用達会社である。
 全国に数千の陸運会社が出来、民間の貨物だけでなく郵便事業の物資輸送も担当した。8年(1875)3月には建設が進められている京都と神戸間の鉄道(後の東海道本線)での貨物取扱を陳情している。

◇陸運会社 解散 → 内国通運会社 誕生
 明治8年(1875)3月、大きな変革があった。
 各地の陸運会社は江戸時代の伝馬所と深いつながりがあり、古い体質が拭えず、権柄ずくで宿場の住民に負荷をかけるなどの弊害があり赤字経営が多かった。

 このため陸運会社は強制解散させられ、陸運元会社は内国通運会社に改名して国内陸上輸送を一手に担うこととなり、各地に出張所や継立所を置いて業務を行うことになった。
 直轄店の他に、内国通運に同盟(協力)して輸送業を行うよう地方の有力者に働きかけ、宿場の旅館に輸送業を兼営するよう説得して真誠講を結成させるなど、輸送網の構築に努めた。9年(1876)頃には、分社が143社、取次所と継立所が4,940か所にもなっている。


伝馬町の内国通運会社支店(汽車汽船積荷の看板)
明治21年頃 『尾陽商工便覧』

内国通運名古屋支店 大正初期
『内国通運㈱発達史』



堀川岸は運漕所がいっぱい
◇名古屋にもたくさんの内国通運
 明治10年(1877)発行の『愛知県名古屋明細図』には、内国通運関係の施設が21か所掲載されている。
 伝馬町が本拠地で、7年(1874)に置かれた名古屋出張所と東分課・西分課があり、伊勢町にも分課がある。伝馬町筋と本町通が交差する南西角は公私人馬継立所があるが、ここはかつての伝馬会所があった場所だ。まだ鉄道が開通していない時代なので、旅人は江戸時代と同じようにここで馬や人夫を頼んだのであろう。

◇内国通運 堀川岸の運漕所
 一番上流のは朝日橋南西橋詰の黒川運漕所だ。この年に開鑿された黒川と庄内川を通って下水野村(現:瀬戸市)までの物資はここで取り扱っている。
 五條橋から伝馬橋下流までは堀川運漕所が9か所設けられている。送り先により扱う運漕所が違うのだ。遠州(現:静岡県西部)から志摩まで、さらに木曽川や長良川沿川、三府(東京・京都・大阪府)五港(横浜・神戸・長崎・新潟・函館港)への運漕所がある。堀川はまさに物資輸送の幹線で、沿川の地域は輸送ターミナルだったのである。

◇街道入口……取次所
 この他に名古屋に通じる街道の入口にも物資取次所が置かれていた。下街道の大曽根口に2か所、山口街道の古出来町に1か所、飯田街道の奥田町に1か所である。
 また、当時は名古屋とは別の町であった熱田には、出張所が1か所と渡船所(桑名・四日市へ)が1か所設けられていた。



内国通運会社の施設 『愛知県名古屋明細図』 明治10年


堀川と碁盤割地区



黒川運漕所


下街道


山口街道

飯田街道
◇独立系の運漕所も……堀川岸は舟運の基地

 内国通運会社は、陸運と河川舟運などを中心に全国規模で事業を行っていたが、その他にも運送会社がたくさんあった。

 『大正昭和名古屋市史』には明治21年(1888)時点で回漕店(海運)が34店、陸送店が20店と記載されている。この中には内国通運会社の同盟(協力)業者もあるが、独立して事業を営んでいる業者もあった。

 明治21年(1888)に刊行された『尾陽商工便覧』には、堀川岸の運送店が5軒ほど絵入で掲載されている。内国通運の運漕所に加えて独立系の回漕店も堀川岸に店を構えており、堀川沿岸はいたるところに運送業者があるという状態であった。




荷物廻漕所(東京・知多郡方面)
船入町

新盛廻漕店(東京・大阪・西国方面)
 船入町

大六組(汽車汽船の積荷)
伝馬橋東

長谷川萬平本店(汽車汽船の積荷)
 木挽町七丁目

愛坂汽舩会社(大阪方面) 木挽町

◇内国通運から日本通運に
 内国通運は昭和3年(1914)に鉄道貨物を扱う国際通運㈱になり、12年(1937)に国策会社の日本通運㈱に変わり戦時体制に対応して主要都市の運送業者を合併し、戦後の25年(1950)に民間会社の日本通運㈱になっている。




 2022/05/20