名古屋の人は、新道といえばお菓子を連想する。この一帯は菓子産業が密集している全国でも珍しい地域である。 |
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この地域での菓子製造の始まりは、はっきりしていない。名古屋築城当時の人夫達を相手に菓子を売ったのが始まりともいわれている。 | |||
◇よもや粔 粔(おこし)については『鸚鵡籠中記』の宝永5年(1708)4月に次の記載がある。 「去比(さるころ)より尾府巾下にて、よもやおこしと云(いう)を仕出して、夥敷(おびただしく)はやる也。風味もよく戸々買はざるものなし。 こぎるとも よもやまげじのおこし米 菓子屋のかゝの あらん限りは」 また、1800年前後に活躍した高力猿猴庵の『尾張名陽図会』にも、押切にあった「三右衛門粔店」が掲載されている。 その説明には、米を積んだ舟が難破し、その米を拾って粔を作ったところ評判が良く、よもやこれほどは売れないと思っていたので「よもや粔」と名付けたとある。 |
『尾張名陽図会』 |
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◇美濃街道沿いから新道へ 宝暦(1751~64)の頃には美濃街道沿いに2~3軒の菓子屋があり煎餅(せんべい)や粔を製造販売していたという。発展するにつれ地価の安い新道などへ立地するようになり、店で製造直販していた。 明治25年(1892)には問屋も生まれて注文生産が始まり、作る菓子の種類も増えていった。 37~8年(1904~5)の日露戦争後に急速に発展し、44年(1911)には1,260軒が製造を行い、年間105万円余の生産額で、朝鮮や満州まで販路を伸ばしていた。 ◇関東大震災で商圏が拡大 大正12年(1923)の関東大震災を契機に、それまで東京の業者の商圏であった地域にも進出し、昭和5年(1930)には全国に販路を拡大し50軒の菓子問屋が活躍するまでになっている。 製造業者も完成品の他、半製品の製造業者もたくさん生まれ、立地区域も明道町や菊井町などへ広がり、生産額は1,200万円にもなっていた。 ◇戦後さらに発展 戦後になるとさらに発展し、新道や明道町は問屋が多くなり、製造業者は西区全域へ広がっていった。仕入れに来た人たちが、菓子が詰まった一斗缶を持って行き来しており、カンカン部隊と呼ばれるほどの賑わいであったという。 昭和53年(1978)には区内の雑菓子(和菓子・洋菓子以外)製造・卸売業者は581軒にもなった。 近年の状況については、よく解らない。平成25年(2013)の工業統計では、西区内に食料品製造業は66事業所あるとされている。ただし、従業員4人以上の事業所を対象とした調査であり、菓子以外の食料品も含んでいるので実態とは相当異なると思われる。町の様子からは、かつてより大幅に減少しているのは確かであろう。しかし、今も菓子産業が密集する特色のある地域である。 |
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昭和9年の新道一帯 {大正昭和名古屋市史』 |
北部(右図の北半分) |
南部(左図の南半分) |
2022/12/16 |
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