堀川+美濃街道
川伊藤家 玄関内
堀川端の豪商たち

 五條橋の南西には今も江戸時代に建てられた商家の建物が残されている。
 いずれも立派な造りでかつての繁栄ぶりが忍ばれるが、なぜこの地区が繁栄したのだろうか。

    交通至便 商業基地   今も残る旧家の建物



交通至便 商業基地
 五條橋のあたりは、碁盤割りの城下に近く交通の便にも恵まれた、商業には絶好の場所だ。

 幹線交通路が2本ある。一つが堀川だ。熱田の浜と城下を結び、舟により大量の商品、特に重量のある物やかさばる物もたやすく運搬できた。もう一つの交通路が美濃街道だ。東海道と中山道を結び、多くの人々が行き交ったこの路は、名古屋と美濃、更には当時の先進都市で文化や産業・商業の中心であった京や大坂への便が良い路だ。

 このあたりの旧町名は大船町・船入町で、江戸時代初期には街道東側の堀川岸は物揚場として解放されていたが、後には多くの蔵が建ち並び、堀川を遡って来た舟は蔵の横に接岸して直接蔵へ商品を搬入することができた。

 3間(5.5m)幅の美濃街道を挟んだ西側には、名古屋きっての大商人の屋敷が連なっていた。
 広い間口の店先には、城下や近郊から小売り商人が仕入れに来ている。帳場では番頭と商人がなにやら話し込んでいる。値段の駆け引きか市況の見通しでも話しているのだろうか。街道には大八車が並び、それぞれの店の小僧さんが、米や味噌、塩、肥料などを運び出し積み込んでいる。このあたりは重くかさばる物を扱う店が多いので、小僧さん達は汗まみれだ。
 街道に面した主家の裏には、中庭を挟んで蔵が建ち並んでいる。この蔵が面していた裏通りが四間道だ。


『天明年間名古屋市中支配分図』
1781~9



今も残る旧家の建物
 今もいくつかの旧家が残りかつての栄華を思い起こさせる。

◇川伊藤家
 川伊藤家は慶長19年(1614)に大船町に移住してきた清州越の町人である。茶屋町の伊藤次郎左衞門家(松坂屋)に対して、大船町の伊藤忠左衛門家は、堀川岸に店を構えているので川伊藤と呼ばれている。
 最初は、薪炭商から始まり、味噌を扱い、穀物問屋へと事業を拡張、さらに新田開発なども行った。延米会所の支配人や町代役も務め、名字帯刀を許された家である。幕末には「三家衆」と並び高い地位を占めた「除地衆」と呼ばれる4家の一つとなり、明治15年(1882)の時点で所有する土地は、281町余(約279㌶)という広大なものであった。

 川伊藤家の屋敷は、間口約15間(27.3m)、奥行き20間(36.4m)という広大な敷地で、建物の中央部分は享保7年(1722)に買取ったと考えられ、敷地内には蔵が4棟建っており、昭和62年(1987)に県文化財に指定された。



本 宅

河岸蔵(現在は店舗に改装)

おくどさん(竈)



中庭

座敷
◇森田家・青木家
 川伊藤家の南側が森田家、その南が青木家だ。

 青木家も古い屋敷が建っていたが平成29年(2017)に建て替えにより近代的な建物に変わってしまった。
 清須越の商人で、知多屋(知多屋新四郎)の屋号で、最初は米・塩問屋を営み、後に塩専業になった。藩の「勝手方御用達」を勤めた有力商人の一人で、長州征伐の時には、財政に窮していた藩から勝手方御用達十人衆に3万両の調達金を依頼されている。現在は「名エン」グループとして、塩の他に食品や産業機械なども取り扱い、幅広く事業を展開している。



平成27年頃の町並
手前から、川伊藤・森田・青木家
 ここの古い建物には300年もの歴史がある。今造られる多くの建物は、数10年で老朽化し建て替えられてゆく。モダンで一見きれいだが、年月を経ることで風格を増すのではなくみすぼらしくなって行く建物がほとんどだ。大船町の古い建物を見ると、建築文化は果たして進歩したのだろうかと複雑な感慨にとらわれる。




 2022/05/06