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城下からご開帳を見に京町筋(五條橋の通り)を西へ向かうと、伏見町あたりから幟(のぼり)が見え始める。その先は参詣者で混雑している。五條橋西の木戸には提灯が2張掲げられ、その先江川(現:江川線)まで幟や看板が重なるように見え、お祭り騒ぎになっている。
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五條橋でなにやら見かけないことが行われ人が集まっている。 橋の上から割竹を樋にして堀川へ突きだし、鰻を放しているのだ。
生き物を助けて功徳を積むため、鳥や魚などを放つ放生(ほうじょう)という風習は昔からあるが、鰻を堀川へ放つのは珍しい。
挿絵には「鯉の滝登りはあれど、これはまた竹下がりするウナギめずらし」と書かれ、竹樋の先からまさに鰻が堀川へ落ちようとする光景が描かれている。
橋の西には飴売りの露店が出て、手荷物預かりの看板が掛かる店がある。
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専修寺名古屋別院門前は店が建ち並び、境内には「天拝一光三尊佛」と書かれた大幟がはためいている。
ふだんは民家だった家も、この期間だけ商人や興行師が借り受けて、食べ物屋や見世物小屋になっている。
いろんな見世物小屋があり呼び込みをしている。少し覗いてみよう。
「評判のれいようかく。珍しい獣だ」と呼び込んでいる。
羚羊はアジアなどの草原に住み、角は羚羊角といって漢方薬だ。折助は「羚羊がそんなにいるはずがない。豚か猪だろう」と通り過ぎる。
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「万よう魚というのは、これだ」という声がする。
入ると台の上にオットセイの剥製らしいものが載っている。見物のお代は6文だ。
「男と女との顔が二つあるもの」の見世物をやっている。
とろくさい「去年、掛所で見たがばかばかしい見世物だった」と、これはパス。
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「蛇娘だ。猟師の娘で年は17、名はおさん。罪障懺悔のために御覧に入れる。お代はわずか6銭」の声に釣られて入ってゆく。
とろくさい「これは良くできた細工だ」、折助「目口が動く」と感心している。見物客が多くて身動きもできないほど込んでいる。
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「珍しい天狗の巣立ちだ。誰が見ても人品がすたらない気晴らしだ」と大声を張り上げている。
入ってゆくと、杉の林を背景にして鳶に衣装を着せて天狗のように仕立ててある。
折助「これは珍しい」。とろくさい「これはええ趣向だ」。
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高田本坊の通りから円頓寺筋へと向かう。
浅黄の幟が立ち、桜煎餅を売っている。その向かいは有名なおさわ餅の店だ。若い衆たちが揃いの派手な頭巾とたすき掛けで働いている。他にも、煮売うどんや餅菓子の店が多い。
人気の曲舂(きょくつき)餅
とりわけ評判となっているのが曲舂餅の店だ。高田派本山の一身田からご開帳と一緒に来た人たちで、歌をうたいながら面白く餅を舂きあげるので大人気となっている。
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オランダ渡りの紅うさぎはここじゃ」と呼び込んでいる。
とろくさい「これは珍しい」、折助「きれいに染めてある」
今度は折助が一首「誰も目をつけてこそ見れ紅うさぎ 一寸ここらにはおらんだのもの」 |
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「とくり子の見世物だ。作り物や乾物とは違う本物だ」と言っている
とろくさい「良くできている。六文払う価値がある」、折助「目口が動く。肌色もいい」。
(※どんな物なのか文と絵ではよく解らないが、徳利のように陶器で人のような形を造り、目や口が動くような仕掛けをした細工物だろうか?)
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力持太夫小竹長五郎一座は、石の井筒の上に桶を積み上げその上に人が立つ芸を皮切りに、鞠を使う芸やいろいろな力芸を披露している。
看板には鐘と人を担いではしごを渡る姿が描かれているが、名古屋では鐘が手に入らず残念ながらできないとのことだ。
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力持ちの看板 |
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鬼女娘の
看板 |
鬼女むすめというのもある。
伯耆国大山の麓、猟師弾六の娘9歳。顔は犬に似て色は非常に青い。耳の穴がなく角が生え年とともに成長している。歯が二重に生え、下あごは奥歯がない。頭はぼさぼさで、怒ると毛が逆立つ。
(※今なら人権侵害や児童福祉法違反ですぐに検挙されそうな見世物だが、木戸銭が4文となっている。他の見世物は6文が多いので、本物の人間ではなく人形であろう)
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慶栄寺のお堂では虎の作り物が評判を呼んでいる。
銭で虎の形を作り、目は小判、爪は二朱銀が用いられて、生きているような勢いがあると人々が押しかけている。
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この他、「玉娘」「さいく鳥」「釣りもの」「楊弓」「からくりまと」「投げ扇」「軽業」「水からくり(水を使うマジック)」などの見世物が賑わいを醸し出している。
盛大なご開帳で見世物なども賑わったが、1ヶ月間行なわれたご開帳の閉帳とともに慌ただしく店じまいを始めた。
みな借り店で、壁を壊し柱を抜いて一時の見世物屋や食べ物屋にしていたので、返すにあたり元のように直す工事が行われた。
『絵入猿猴庵日記』『折助噺後編 高田山開帳参案内図会』の著者である高力猿猴庵(尾張藩士)も、この見世物を楽しんだようです。
しかし、今の時代の私たちから見るとたわいも無いつまらない展示が多くを占めていたと思われます。
私は1970年頃、東京浅草にある花屋敷(遊園地)で昔の見世物の興業を見ました。入場料は確か30円、当時学生食堂の定食が60~100円位の時代でした。
入口に「大いたち」と書いた看板がありました。入ってみると、芝居の書割のような造りで家の縁側ができており、そこに血が飛び散ったように赤いペンキが塗られた木製の雨戸が置かれていました。「大いたち」は「大鼬(いたち)」ではなく、「大板血」だったのです。
「ろくろ首」という見世物もありました。中には書割で部屋が造られ、隅に行灯が置かれ、非常に長い首の人形が行灯の油を舐めようとしている風景になっていました。人形は置かれているだけで動きません。
他にも色々展示されていましたが、覚えているのはこの二つだけです。
3人で見に行って、3人ともばかばかしいと思いましたが「30円では怒る気にもならないなあ」と苦笑いして出てきました。
テレビやインターネットで珍しい風景や物がふんだんに見られ、コンピュータ制御で精密に動く人形に慣れた今の時代の私たちにとっては、昔の見世物はつまらない物にしか見えません。
しかし250年前の人にとっては、普段見られない珍しい物を見ることができる、貴重で楽しいイベントだったのでしょう。だから猿猴庵は細かに絵と文章で記録を残したと思われます。
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