合板 生みの親
合板会館に建っていた頃の吉次郎像
浅野吉次郎
 現在、建築や家具の主要な材料は合板である。その合板は、日本では名古屋が誕生の地で浅野吉次郎が生みの親だ。
 吉次郎が合板を開発したのは、円頓寺商店街の一角である。

    吉次郎 誕生   未知の技術 機械の開発から   合板産業の興隆と衰退



吉次郎 桶・樽製造業の息子として誕生
 浅野吉次郎は、安政6年(1859)に名古屋で生まれた。家は3代続く尾張藩御小納戸の御用も勤める樽や桶の製造業であった。
 20歳の頃家の仕事を継ぎ、西区上畠町(現:那古野二)で桶樽の製造と共に水車精米も行っていた。

 明治20年(1887)にセメント会社が熱田に設立されると、セメント樽の製造を請け負い、翌年には手動足踏み式の機械で樽側の挽き割りができるように技術改良をしている。


『名古屋枢要地図』
大正3年



未知の技術 機械の開発から
◇合板との出会い
 明治32~3年(1899~1900)頃から三井物産の依頼で輸出用茶箱の製造を始めた。材料はもみの木だ。順調に事業が伸び、38年(1905)の頃には1か月で10万セットもの生産になった。

 しかし材料の高騰がおき、更にイギリスからの安い競業製品が出回り始めた。三井物産の担当者が調べ、取り寄せてみると合わせ板でできていた。


◇苦労して技術開発
 吉次郎は早速木を薄く剥ぐ機械の発明に取りかかった。

 この頃すでにマッチの軸木を造るため、大根のかつら剥きのように丸太の表面を剥いて薄い単板を作る機械があったが、遙かに広い幅で剥かなければならない。苦労を重ね、2年後の40年(1907)11月ついに完成した。今のロータリーレースである。

 次の課題は、単板の乾燥と接着だ。
 この善し悪しで合板の品質が決まる。5厘(1.5㎜)に剥いた薄板は、太陽や風ですぐに伸縮・割れ・捻れが生じる。乾燥室でも割れてうまくゆかない。ついに100尺(30m)の乾燥機にローラーをセットし、その上で単板を送りながら蒸気と送風機で乾燥させる機械を開発した。

 接着剤も難しい。
 米糊・小麦粉糊を試したがうまくゆかない。結局膠(にかわ)を竹のブラシで塗る事になった。後には改良して、ホルマリンで膠を処理しローラーで、さらには機械で塗るようになった。


 開発中に工場を視察に来た同業者や高官たちは、経費がかさむばかりで前途がなかなか見えてこない様子を見て、悲観的な忠告をしたという。
 しかし吉次郎は不撓不屈の精神でついに技術を確立し、明治42年(1909)から大正5年(1916)にかけていくつもの特許を取っている。


ロータリーレース(かつら剥きの機械)


乾燥機(かつら剥きした単板を乾燥)


糊つけ機(乾燥した単板に糊付け)


冷圧機(糊付けした単板を重ねて圧締)
『合板七十五年史』

  ◇呼び名は 合わせ板・アサノ板
 作られた板は新製品なので当初は名前が無く、初期の頃は「合わせ板」「アサノ板」と呼ばれた。

 明治41年(1908)、鶴舞公園で開催された勧業博覧会には、3尺(91㎝)×2間(364㎝)の能楽堂の鏡板を出品している。

 この頃の樹種は、樺・楢・タモなどで、主に飛騨・木曽・美濃・伊勢のものを使用していたが、41年(1908)以降は北海道材が年々増えていった。

◇水上機のフロート材も
 第一次世界大戦が近づいていた頃、浅野木工場に横須賀海軍工廠から特大の合板を至急造れと注文が入った。長さが16尺(4.8m)、幅が4尺(1.2m)、厚さが1分5厘(4.5㎜)のものだ。ドイツの拠点となっていた中国の青島(チンタオ)攻撃に使う水上飛行機のフロートに付ける外装材との事である。三六板(幅:3尺、長さ:6尺の板)の製造設備しかなかったが工夫して何とか完成させ、大正3年(1914)9月から始まった飛行機での青島攻撃は成功した。

 

『名古屋枢要地図』裏面 大正3年
◇増加する合板工場
 明治末頃になると、マッチの軸木を作っていた工場で単板や合板を作り始めるところが北海道や大阪に現れた。山葉楽器〔現:ヤマハ㈱〕も明治44年(1911)にドイツから機械を輸入して合板の生産を始め、自社用のほか一部は市販し始めた。

 合板の用途が拡大し、生産量も増えていく。明治41年(1908)には合板を製造する工場は浅野木工場1か所しかなく年間生産量も20万平方尺だったのが、大正12年(1923)には14工場で2,960万平方尺と150倍近い生産量になっている。

 技術も進歩し、接着に膠より耐水性のあるミルクカゼインが大正7年(1918)頃から使われ始めている。15年(1926)には名古屋の荒川源蔵が露橋の工場でラワン合板の量産を始めた。当初は評判が悪かったものの、品質の向上と価格の低下により生産が増え、東南アジアやアメリカ・ヨーロッパまで輸出されるようになっていった。

◇世界恐慌 昭和6年(1931)浅野木工場廃業
 しかし、良い事ばかりではない。昭和初期は恐慌の時代であった。
 昭和2年(1927)に金融恐慌が起き全国で31の銀行が店を閉じ、4年(1929)には世界大恐慌が始まった。日本では大学卒業生の3割に就職口がなく「大学は出たけれど」という映画が作られた様な時代である。

 この嵐の中、浅野木工場は6年(1931)に廃業のやむなきに至った。合板の生産に成功してから24年後の事であった。



合板産業の興隆と衰退
 合板は、ラワン材と大豆グルーの採用により安い価格でつくられるようになり、ますます普及していった。

◇名古屋は一大生産地
 昭和8年(1933)には製造や販売業者により全国ベニヤ板業者連合会や名古屋ベニヤ協会などの支部が各地に結成されている。加入者は9年(1934)現在、全国で123業者、名古屋支部には22業者が加入し全国の18%であった。

 価格競争から品質の悪い品も流通する。業界による自主検査が始まったのも名古屋だ。
 11年(1936)に愛知県ベニヤ板工業組合が規格を定め、合格品には商標を張るようになり、安心して取引できるようになった。

 年々生産が増え、12年(1937)には全国の187工場で7億9000万平方尺近い生産量となっており、その半分はラワン合板であり、15年(1940)には戦前の最高生産量になった。

◇戦災と復興
 合板工場は大都市の海岸工業地帯に多く立地しており、太平洋戦争で激しい空襲をうけ、設備能力では7~8割が失われるという壊滅的な損害を被った。

 焼け野原となった市街の復興には大量の合板がいる。
 業界の復興スピードは速く、昭和22年(1947)には316工場が稼働し、28年(1953)には生産量が9,584万㎡に達し、戦前の最高水準を超えた。

 この頃の合板工場は、従業員50人以下の中小工場が多く、100人を超える工場は失敗するといわれていた。その中で名古屋から新しい動きが始まった。東洋プライウッド〔平成22年(2010)に住友林業クレスト㈱へ併合〕の設立である。当時は大規模工場でも月産9万2000㎡だが27万5000㎡の計画で建設され、昭和26年(1951)に稼働し始めた。これは他にも波及し、静岡の野田合板・大阪の永大産業も大工場を建設し、合板業界の合理化が進んでいった。
 接着剤も進歩して耐水合板が生まれ、難燃合板などさまざまな合板もでてきた。

 躍進する合板業会は、その基礎を築いた浅野吉次郎の遺徳を偲び、合板誕生50周年を記念して32年(1957)に港区の南陽通六丁目電停近くにあった中村合板に吉次郎の像を建立した。

 戦後の復興も終わり、明るい光が見え始めたこの頃、名古屋では大災害が発生した。34年(1959)9月の伊勢湾台風である。貯木場などに保管されていたラワン原木が高潮に乗って流出し、家屋などを破壊し被害を拡大させた。このことにより、その後は飛島の木材団地への移転が進められる事になる。

◇昭和49年がピーク
 農林水産省の統計で、普通合板の生産は昭和49年(1974)がピークだ。合・単板の工場が769あり、13億8000万㎡を生産している。その後は減少して、平成8年(1996)に439の工場で6億4000万㎡を生産するだけとなり、最盛時の半分以下でその後も減少し、6割近くをマレーシアやインドネシアなどからの輸入に頼っている。23年(2011)現在、日本合板工業組合連合会への加入は33社で、名古屋市内の会社はわずかに3社しかない。

 合板機械を開発し、ラワン合板を初めて本格的に製造し、品質の自主検査を全国に先駆けて行い、工場の大規模化・近代化の先鞭を付けた名古屋だが、堀川や中川運河の沿川地区で見られたロータリーレースが廻る工場は一つまた一つと姿を消し、浅野吉次郎像も昭和57年(1982)に中村合板(株)から合板会館に移転された。その後、吉次郎像は合板生誕100年を記念して平成19年(2007)に東京の新木場に造られた木材・合板博物館へ再移設されている。




 2022/04/01