合板会館に建っていた頃の吉次郎像 |
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現在、建築や家具の主要な材料は合板である。その合板は、日本では名古屋が誕生の地で浅野吉次郎が生みの親だ。 吉次郎が合板を開発したのは、円頓寺商店街の一角である。 |
吉次郎 誕生 | 未知の技術 機械の開発から | 合板産業の興隆と衰退 |
◇増加する合板工場 明治末頃になると、マッチの軸木を作っていた工場で単板や合板を作り始めるところが北海道や大阪に現れた。山葉楽器〔現:ヤマハ㈱〕も明治44年(1911)にドイツから機械を輸入して合板の生産を始め、自社用のほか一部は市販し始めた。 合板の用途が拡大し、生産量も増えていく。明治41年(1908)には合板を製造する工場は浅野木工場1か所しかなく年間生産量も20万平方尺だったのが、大正12年(1923)には14工場で2,960万平方尺と150倍近い生産量になっている。 技術も進歩し、接着に膠より耐水性のあるミルクカゼインが大正7年(1918)頃から使われ始めている。15年(1926)には名古屋の荒川源蔵が露橋の工場でラワン合板の量産を始めた。当初は評判が悪かったものの、品質の向上と価格の低下により生産が増え、東南アジアやアメリカ・ヨーロッパまで輸出されるようになっていった。 ◇世界恐慌 昭和6年(1931)浅野木工場廃業 しかし、良い事ばかりではない。昭和初期は恐慌の時代であった。 昭和2年(1927)に金融恐慌が起き全国で31の銀行が店を閉じ、4年(1929)には世界大恐慌が始まった。日本では大学卒業生の3割に就職口がなく「大学は出たけれど」という映画が作られた様な時代である。 この嵐の中、浅野木工場は6年(1931)に廃業のやむなきに至った。合板の生産に成功してから24年後の事であった。 |
2022/04/01 |
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