運河神社上宮
金刀比羅社(西宮神社)

 中川運河に二つ有る運河神社の上宮が金刀比羅社である。一緒に西宮神社も鎮座し、シャモジを奉納して疣の治癒を祈願するオシャモジサマ(社宮司社)も祀られている個性的な神社だ。

    金刀比羅社(西宮神社)   社宮司社(オシャモジサマ)とは?



金刀比羅社(西宮神社)
    入口の鳥居横に「運河総鎮守 金刀比羅社」と刻まれた大きな標柱が建ち、その右手に二回りほど小さな「西宮神社」と刻まれた標柱がある。
 これを見ると、本社は金刀比羅社で、境内社として西宮神社があるように感じるが、この地は江戸時代は西宮神社が鎮座し色々な変遷を経て中川運河開削後に今の姿になった。

 
◇西宮神社
 『尾張徇行記』の米野村には次のように記録されている。
 「西宮神社内 東西六間(10.9m)南北二間(3.6m)前々除也、此社ハ元村控ナリシカ 寛政九巳年(1797)ヨリ当寺(円福寺)控ニナレリ」
 『徇行記』には、西宮神社の記載はあるが金刀比羅社は書かれていない。


『米野村絵図』
   ◇金刀比羅社
 一方、金刀比羅社はこの地では新しい神社である。
 中川運河が全通した昭和7年(1932)にこの地に運河総鎮守として祀られ、15年(1940)に皇紀2600年記念として入口の鳥居と金刀比羅社の標柱が建てられた。標柱は「中川運河発展期成同盟会」の奉納である。

◇時代とともに
 境内の「由緒記」碑が建っている。
 碑を建てた年の記載はないが、発起人の一人に名古屋市長縣忍の名がある。在任していたのは、昭和14年(1939)から17年(1942)なので、その間に建てたと考えられる。

 碑には、次のように書かれている。
 「金刀比羅社は人皇第九十二代伏見天皇の御宇に、鎌倉幕府執権北条貞時の命に依り尾張国愛智郡那古野莊広井の里に斎ひまつり、航行の安全を祈願せし社にして、明治の代に至り鉄道開通学校新設等の爲め境内地を失ふこととなりしが、紀元二千六百年に当り、有志相謀りこの由緒ある神社を公許を得て当所に奉遷し運河総鎮守の神として奉祀せり。
 


『由緒記』碑

   また、西宮社は凡五百年前に御伊勢川の守護神として此地に斎ひまつりしものにして、古来この宮を疣(いぼ)の神様と崇めて参詣者常に絶えさりしが、明治の代神社合併の儀各地に唱えらるるに及び、当社も亦金山神社に合併せられたり。
 十数年前迄社側を流れたる笈瀬川は往昔御伊勢川と称し、此附近より下流は川幅広く船舶の航行も実に盛なりき。名古屋築城に当りては、其用石の大部分をこの川に依りて当所附近に運び加工して現場に運搬せしものなり。
 爾来数百年の星霜を経て地貌川容は改変せしも、凡十年前まで境内地百有余坪の丘阜地に樹齢数百年の老松鬱葱として存したりき。後年都市計画の実施に伴ひ笈瀬川を中心として大運河の開鑿となり、何時か老松は枯れ失せ丘阜地は耕地整理の為め引き均され、今は全く昔日の面影を窺ふ能はざるに至りぬ。
 其後数々の霊夢奇変を耳にするに至りて、神慮捨て置けすと先年有志相謀り元社地に再び奉遷斎祀せり。
 茲に紀元二千六百年を記念し境内地の拡張社殿の改築を志し、崇敬者の賛同を得て目下着々として工を進めつつあり。完成の期も近きにあらんか。以上記して、以て之れを後昆に伝ふ。」

 
 これによると、金刀比羅社は伏見天皇(在位:1287~98、鎌倉時代中期)に那古野の広井(現:おおむね堀川の五條橋上流から天王崎橋下流の、堀川から東海道線までの区域)で創建されたが、明治になり境内地を失い廃社となっていたのを、運河完成後に航行の安全を祈願してここへ祀ったということである。
 西宮神社は1440年頃(室町時代後期)にこの地で創建されたが、明治の神社統合策で金山神社へ合併された。跡地は老松が繁る丘で100坪ほどの土地だったが、運河開削後に再びこの地へ遷座して祀ったということだ。

 西宮神社がこの地へ再遷座したのは、別の石碑に「還宮 昭和八年五月五日」と刻まれており、金刀比羅社がここで再興された翌年1933年のことだ。
 明治になって遷座したという金山神社は、金山駅南の金山神社ではなく、800m北西にある米野村氏神の金山神社(中村区長戸井町)であろう。
 なお西宮神社の境内地は『尾張徇行記』に「西宮神社内 東西六間南北二間」と書かれ、12坪ほどの狭い社地の小さな神社だったが、碑では100坪ほどと書かれている。

 また、碑では西宮神社は疣の神としているが、疣の神は社宮司社(オシャモジサマ)で西宮神社とは別の神社だ。明治期の小社統合により西宮神社と同様に金山神社に遷座し、さらにここへ遷座して、現在拝殿に置かれている祠が社宮司社である。西宮神社の祭神は境内の石碑に「西宮神社 天照御大神之荒魂 今ヲ去ル五百年前 此地ニ斎ル」と刻まれ、疣の神ではなく天照大御神である。





◇拝殿のシャモジ
 拝殿の正面には、大きなシャモジがぶら下がっている。文字が墨書されているが,今では読めない。
 その左手に社宮司社(オシャモジサマ)の小さな祠があり、その右に置かれた箱に普通の大きさのシャモジがたくさん入っている。どのシャモジにも住所や名前・疣の場所などが書かれ、疣が取れるようにとの願いを込めて奉納したものだ。

 また、祠の前に重軽石が置かれている。これは占いに使う石だ。願い事をしながら持ち上げ、思っていたより軽ければその願いは叶い、重ければ叶わないという。

◇境内社など
 本殿右手には玉姫稲荷社・秋葉社・白龍社が鎮座している。
 その前に建つ鳥居脇の永代常夜灯は「天保二年辛卯八月」の文字が彫られている。1831年に寄進されたもので、境内にある唯一江戸時代の物ではなかろうか。

 入口に建つ鳥居の左には「名古屋築城石切場」と彫られた石柱が建つ。
 名古屋築城の時、石垣に使う石を笈瀬川を利用して運び、このあたりで陸揚げして加工したと言われることから、昭和11年(1936)に東進耕地整理組合が寄進したものである。


左から、秋葉社・稲荷社・白龍社


天保2年の常夜灯


名古屋築城石切場碑



社宮司社(オシャモジサマ)とは?
◇中川図書館の資料では
 中川図書館が出したリーフレット『昔話から見た中川区』には、オシャモジサマについて、次のように記載している。

○オシャモジサマ
 シャグジ、シャゴジ、ミシャグジ、オシャゴジ、オシャモジは古い時代からの中部地方における民俗信仰の名残だと言われており、愛知県各地に社宮司(しゃぐうじ)信仰があるようです。
 漢字では、社宮司、西宮神、斎宮神、三狐神、石神、御左口神などと表記され、信仰の起源は、石の神を祭ったという説が有力ですが、ほかにも、豊臣秀吉による太閤検地で用いられた竿(さお)を祭ったという説、神社の社殿改修の折に神が一時遷った場所に由来するという説など様々な説があります。  …… 中略 …… 
 現在の中川運河の小栗橋の北北西に松の木のあるこんもりとした塚があり、石が祭られていたと言います。この社宮司社は、現在では月島町の西宮(にしのみや)神社に祭られています。境内にはシャモジが奉納され、疣(いぼ)を治す神様として信仰されています。シャモジは、シャグジという言葉からの訛りでしょうか。
 神社付近は、中川運河以前は笈瀬川が流れていました。
 名古屋城築城の際には、川を運搬された石垣の石を加工する場所(石切場)となり、当時石工が住んでいたそうです。当地のオシャモジさまにはこのような歴史も深く関係していると考えられます。
 西宮神社は金刀比羅(ことひら)社と一緒に祭られています。これは、昭和5年(1930)に中川運河が開通したのを記念して金刀比羅社を運河総鎮守としたもので現在の境内は昭和15年(1940)に整備されました。

◇ウィキペディアでは
 ミシャグジ仰について非常に長文の記述があり、さまざまな説が掲載されているが、その一部に次の記述がある。

 ミシャグジとは、中部地方を中心に関東・近畿地方の一部に広がる民間信仰(ミシャグジ信仰)で祀られる神(精霊)である。長野県にある諏訪地域はその震源地とされており、実際には諏訪大社の信仰(諏訪信仰)に関わっていると考えられる。全国各地にある霊石を神体として祀る石神信仰や、塞の神・道祖神信仰と関連があるとも考えられる。
   …… 中略 ……
 ミシャグジの実態については様々な説があげられているが、解明されたとは言い難い
 ミシャグジの分布を調べた今井野菊によると、長野県には750余りのミシャグジ社が存在し、そのうち諏訪109社、上伊那105社、下伊那36社、小県104社などが多い郡であるという。全国では山梨県160社、静岡県233社、愛知県229社、三重県140社、岐阜県116社、滋賀県228社のほか関東各県にも見られる。
 なお、大和岩雄(1990年)は今井が「ミシャグジ社」とした滋賀県内にある神社のほとんどが大将軍神社であると指摘し、それはミシャグジ信仰に含まれないとしている。また、群馬・埼玉・山梨ではチカト信仰と重なっている。


 これまで私が訪れた社宮司社は、洲崎神社の石神、熱田の社宮司社、神明社(露橋)の境内社である西宮社などがある。戦前には名鉄瀬戸線の駅に社宮司駅(現在の尼ヶ坂駅と森下駅の中間)もあり、この地方は確かに社宮司信仰が盛んだったようである。しかし、疣の神だったり咳の神だったりして御利益も異なり、内容はよく分からない神様である。




 2024/04/27