江戸後期、漁師たちが日置橋周辺で堀川水神祭という大漁を祈る新しい祭を始めた。巻藁船や舞台船が出てたくさんの見物客も集まり賑わったという。 |
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◇祭で豊漁を祈願 享和元年(1801)6月、堀川で新しい祭が始まった。堀川(日置)水神祭である。 何を祈る祭かというと、大漁を祈願する祭だ。日置には海で漁をして暮らす人も居た。その人たちが祭を始めたのである。 |
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◇祭のようす 『尾張年中行事絵抄』や『金明録』によると、祭は次のようなようすだった。 堀川の中に仮設の祠を造り、水神と言われる罔象女(みつばめ)命を祀ってある。 日置橋には長いロープを高く張って提灯が下げられ、たくさんの見物人が集まっている。街中の家にも提灯が掲げられ祭の雰囲気を盛り上げている。 大きな舟2隻を繋いでその上に提灯山を建て巻き藁船を造り、幕を張り巡らして飾ってある。舟の上では神子が神楽や鈴の舞を奉納している。厳粛な神事かと思いきや、いかつい漁師の若者が神子に扮して、戯けた所作で見物人を笑わせているのだ。舟は日置橋の北から納屋橋までさかのぼり帰ってくる。 |
『尾張年中行事絵抄』 右端に祠が見えている。中央の橋が日置橋。 左に巻藁船が描かれている。舞を舞っている巫女は漁師が扮しているので、拡大してみるとずいぶんグロテスクな顔に描かれている。 右手中央に舞台船がいる。船上に全身真っ黒な人が1人踊っている。 |
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文化8年(1811)には、巻き藁船のほかに舟2艘を連結して板を張って舞台舟を造った。 若い衆がくろんぼ踊りをしたり、白の帷子に腰蓑を着けて海女の格好になって踊ったりして見物客を楽しませた。堀川岸にある上級武士の下屋敷の前では接岸して芸を披露した。 ◇日置の漁師 江戸時代の漁師や舟の数などは不明だが、明治41年(1908)10月7日の『新愛知』に次の記事が掲載されている。 「市内日置付近を中心とした堀川筋一帯に、打網舟を有し熱田湾内に鯔(いな)打舟遊の顧客に応じたるもの10年前までは20余艘を数へしも、近時漸く衰退し又仲間内にも利己主義の悪弊ある為、熱田築港以来湾内の魚族大いに繁殖したるにも関せず益々顧客を減ずるの風あるを慨し、今回打網漁業の古老平松吉五郎等主唱となり仲間規約を設け打網遊船の復興を計り大発展をなさんと同士の漁業者を糾合し、去る4日の日曜日に右披露のため各新聞記者其他の好漁家を招待し、漁船6隻を艤して熱田湾内に連合打網を催して観覧に供したりと」 明治30年頃は日置を中心にした堀川には20隻余の遊漁船があり、熱田湾で投網により鯔(いな、ボラの子ども)漁をして客を楽しませていた。しかし40年頃には客が集まらず衰退してきたので、新聞記者などを招待して投網漁を見せるイベントを行ったという内容だ。 今の日置からは、とても漁師や漁船がいたとは想像できないが、明治頃までは伊勢湾での漁業も盛んだったようである。 |
2021/09/08 |
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