タムシに御利益
山神社
 かつて七志水川が流れていた大須通の南岸、小高い山の上に神社がある。山神を祀る山神社で、江戸時代から鎮座し小さいながら村社として地域の崇信を集めてきた。


    小さくても神社らしい神社   境内に残る地域の歴史



小さくても神社らしい神社
◇小さな神社だが村社
 大須通の南、一段と小高くなっているところに山神社がある。
 境内は狭く社も小ぶりだが、うっそうと茂る樹木と山の上に鎮座することから、都心とは思えない神社らしい雰囲気を醸している。
 小さな神社であるが旧社格は村社で、かつては11月の例祭の時に市から供進使が派遣されたという。

◇祭神は山神
 祭神は大山祗神(おおやまつみのかみ)、火之迦具土大神、武速須佐之男大神である。江戸時代の『寛文村々覚書』や『日置村絵図』には「山神」と書かれている。大山祗神は山をつかさどる神とされているので、明治以降に大山祗神が主祭神とされたのであろう。


『日置村絵図』
◇田虫に御利益
 この神社はタムシ(田虫 皮膚病)に御利益があると言われていた。7~10日間オコゼ(虎魚)を断ち物として願をかけると直ったという。お礼にオコゼを描いた絵馬や本物のオコゼを奉納した。
 なぜオコゼを奉納したのであろうか。
 山神は一般に女神とされるが非常に醜かった。このため、山神以上に醜い魚のオコゼを奉納すると山神は安心して機嫌が良くなるという説がある。もっとも、山神がオコゼに恋をしたのでオコゼを奉納するという説もあるので、本当のところは解らない。

◇御神木から手が抜けなくなる
 『鸚鵡籠中記』の正徳4年(1714)5月5日のところに、次の記録がある。
 「日置村山の神の神木大榎の穴え、嶋鴨の巣をさがすとて、所の百姓の子十二三歳ばかりなりしが、つれの子に麦がらを踏えさせ、其者の肩え上り、巣を捜しける間に、下なる子、ふまへし麦がらすべりて落ると、上なる子は穴に手を指入ながら、中にぶらりと懸り居り、何とすれども此手ぬけずて、泣出し叫ぶ。
 何者か申出したりけん、大榎から蠎蛇(うわばみ)が出て、少き子を呑とて、御園堀川は勿論、広井辺迄聞伝へて奔波す。晩に及び大工を呼、手の際をほりて、漸ぬきたれども、久敷物はくはず、手は腫れ目などまわしたりと。
 古へより此木に崇り多くありと。先年も枝切て乱心となるものあり。三年斗前に枝伐し男、大晦日に此木にて首くゝり死す。」

 子どもが鳥の巣を探そうとして、一緒にいた子の肩に上り御神木の穴に手を差し入れたところ、下で支えていた子どもが足を滑らせたので宙づりになり手が抜けなくなってしまったという話だ。また、御神木の枝を切ったものは乱心し首をくくったという話もあるという。
 なかなか神威のある御神木である。

 




境内に残る地域の歴史
◇旭遊郭の妓楼から奉納
 玉垣の石柱の一つに「金波楼」、石垣の石に「常磐町角井筒」の文字がある。
 山神社の道路を挟んですぐ北側の大須には、明治7年(1874)から大正12年(1923)まで遊郭(旭郭)があった。この二つは郭の妓楼が奉納したものだ。金波楼は吾妻町に店を構え大籬(おおまがき、大店)として知られていた。

◇曲馬団から奉納
 玉垣の中に赤林曲馬団が奉納したものが2本ある。
 曲馬団とはサーカスのことで、かつての日本にはたくさんのサーカス興業を行う団体があった。その一つが赤林曲馬団で昭和30年代(1955~)まで興業をしていた。今も残る絵葉書には、一輪車・空中ブランコ、綱渡りなどが写っており、庶民に親しまれた娯楽として全国を回っていたが、名古屋で興行したときに奉納したのであろう。


金波楼奉納の玉垣

「常磐町角井筒」と刻まれた石
他の用途に使ったのを再利用したようで
文字が右に90度傾いている

赤林曲馬団奉納の玉垣




 2021/09/13