聖運寺は尾張藩とゆかりが深い寺で、かつては堀川に向いた山門を構えていた。その姿はいくつもの絵に描かれている。
堀川に面したお寺
藩と深いつながり
戦災の爪痕
堀川に面したお寺
日秀山聖運寺は日蓮宗の寺である。
今は堀川に直接面していないが、かつては堀川に面し山門も堀川に向かって建てられていた。堀川周辺にはいくつもの寺社があるが、江戸時代に堀川に向かい山門が有ったのはこの寺だけである。
寛永6年(1629)に、高原院(春姫=初代藩主義直の正室)が僧日真に創建させた。
当初の寺号は覚林院で、現在は至誠院(伏見通の西、五條橋と中橋の間の東西道路北)がある所で開山された。5年後の寛永11年(1634)に聖運寺に改号し、天和3年(1683)に現在の場所へ移転している。
『御船御行列之図』
藩と深いつながり
創建のいきさつから藩とのつながりが深く、本尊などは高原院の寄附で、寛文13年(1673)から年頭に城の広間での御目見(おめみえ)を許されている。『尾張年中行事絵抄』には8月20日に聖運寺でお宝拝見が行われるが、「近年上より御預の品数多有之」と書かれている。
聖運寺が創建された所は、2代藩主光友の生誕地という話が『編年大略』に書かれている。
「一瑞龍公御誕生 寛永二乙丑七月廿九日午刻 御本卦師九二 御産所大局宅(矢崎右京母) 名護屋永安寺町筋桑名町・長島町筋之間也(後中為仏院日蓮宗松雲寺住之 貞享元年甲子 松雲寺移于日置村 其跡今者高田宗至誠院是也)」
光友(瑞龍公)は寛永2年(1625)に生まれた。誕生の地は大局の家である。その場所は永安寺町筋(五條橋と中橋の中間にある東西道路)の桑名町筋と長島町筋に挟まれたブロックである。生まれた場所は後に松雲寺という寺になった。松雲寺は貞享元年(1684)に日置村へ移転し、跡地は至誠院になった
という内容だ。
生まれた場所は桑名町・長島町の間としており、至誠院より2ブロック東で、寺号は松雲寺と書かれているが、日置村へ移転し跡地は至誠院になったとしていることから、聖運寺と考えて差し支えないと思われる。
光友の生母は歓喜院だが、嫡母は高原院であり、光友誕生の4年後に生誕地に聖運寺を建立させている。寺と藩の深いつながりは、ここから生まれたのであろう。
『尾張年中行事絵抄』
『尾張名陽図会』
戦災の爪痕
寺の境内にイチョウの大木がそびえている。推定樹齢は300年とも400年ともいわれている。幹回り4.5m、根回り7.4m、樹高は23mもある。無数の乳がたれ下がっている。
よく、この木を見てみると樹皮の西側の部分が黒くこげている。昭和20年(1945)の戦火によって、こげたものだ。焼夷弾をうけて、本堂は燃えてしまった。しかし、このイチョウの大木は、樹皮をこがしながらも盾となって、聖運寺より東側の地を護った。
戦後の堀川を行く艀と聖運寺(左上)
昭和21年頃 モージャー氏の写真
銀杏の大木
右の写真の聖運寺部分拡大
2021/11/22