明治43年、精進川の改修工事が完了した。するとこの川で身投げする人が多く、人々は「精進川」という名が悪いといった。「新堀川」に改名したが依然として続き、「死に堀川」と陰では言っていた。 この川で亡くなった方の霊を弔うために建てられた地蔵が、宇津木橋南東にある。 |
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宇津木橋南東の駐車場にお地蔵さまが立っている。 台座正面に「精進川 溺死諸群霊」と刻まれ、背面に「明治四十三年十二月十七日 建之」とあり、1910年に精進川で水死した方の霊を弔うために建立された地蔵である。 新堀川はこの年の2月22日に通水式が行われ、12月には全工事を完了しており、その頃の建立だ。 『前津旧事誌』には、開削工事と身投げの流行を次のように記録している。 「此工事(新堀川開削)起るや工区を四区に別ちしため請負者を異にせる区境に於ては土工の紛爭屡々起り、為めに土運車に抜身の日本刀を突立て或は腹巻の間に短刀を包むなど、工事場の土工間に殺氣満ち満ちて一時は附近住民ら安き心なく、婦女子らの通行杜絶せる事ありたり。 尚竣功後此川に入りて水死するもの多かりしかばこれ精進川といふ名の祟りなりとて(佛教にては死者あるとき又は佛の命日には精進する慣しなるより連想して)新堀川と改められしが、かくても尚入水者絶えざり しかば前津辺にてこれ「死に堀川」なりと噂せり、予も明治四十四五年頃一ヶ年ばかり新堀川畔中央線鉄橋際の水道鉄管検査場に勤務せしが、水死者を実見せること実に屡々にして、中に老按摩及可憐の皺妓の屍を目睹せし印象は今も尚歴乎として腦裏にあり、されどこれも二三年の流行にして其後いつともなく此風止みたり。」 台座に記されている東雲連と朝日連は富沢町(本町通の一本東、伝馬橋筋から広小路筋まで)付近にあった芸者置屋の団体、千歳座は南桑名町(広小路伏見交差点の東南ブロックの東側)にあった千人以上収容できる大きな劇場である。 |
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2024/06/17 |
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