初蛭子で賑わった
稲荷神社(山王稲荷)
 古渡町交差点の南西に、朱塗りの立派な社殿を構える稲荷神社が鎮座している。この神社は4代藩主の義通がここに遷座して造営し、かつては初蛭子の参詣で非常に賑わったところである。


    4代藩主義通 造営   初蛭子の賑わい   蛭子社 泥江縣神社へ遷座



4代藩主義通 造営
◇正徳3年(1713) 石枕村より
 『尾張名所図会』では、稲荷神社を次のように紹介している。
 「国君円覚院殿、元禄2年(1689)9月17日、江戸四ツ谷御館にて御誕生ましまし、稲荷を生土神(うぶすながみ)とし給ひし故、御崇敬あらせられ、吉見刑部少輔幸和に命じ給ひて、丹羽郡石枕村の稲荷の社をここにうつし、正徳3年(1713)4月25日遷座なさしめ給へり。
 末社 山王社 本社の北の方にあり。本社と同時に清洲よりうつす。
 境内に楓樹多くありて、秋霜是を染むる時は、紅2月の花を欺き、観賞なのめならず、雅俗遊人の履歴日に絶ゆることなく、占秋の奇観、げに府下の第一なり。」



『尾張名所図会』
 4代藩主の吉通(よしみち)が産土神として稲荷を信仰していたので、石枕村(現:江南市)の稲荷社を正徳3年(1713)4月にここへ遷座し、併せて山王社を清洲から遷座して今の神社となった。
 この時に、この地が繁栄するように操り芝居(人形浄瑠璃)の興行が許され、後に歌舞伎芝居が上演されるようになった。

◇義通 遷座の3か月後に頓死
 吉通は元禄12年(1699)に父で3代藩主の綱誠が48才で亡くなったので、数え11才で藩主になった。
 稲荷社を創建したのは吉通が25才(満23才)の時であるが、その年 正徳3年(1713)7月26日に亡くなっている。
 吉道は7月21日に、幕府の命で江戸四谷の屋敷に蟄居させられていた実母の本寿院を訪問し、食事をした後血を吐いて、26日に亡くなった。

 その後は吉通の子である五郎太が、数え3才で相続し5代藩主になったが、3月後の正徳3年10月に亡くなっている。




初蛭子の賑わい 
 寛政8年(1796)、摂津(現:兵庫県)のえびす宮総本社である西宮神社から勧請して境内に蛭子社が創建された。

 毎年1月10日には大阪の今宮戎(エビス)神社の祭礼をまねて初蛭子が行われ、大変な人出で賑わった。色々な縁起物を付けた福笹が売られ、富くじ付の小神像が配付された。

   
『尾張名陽図会』 門を入った右に「惠美須の社」がある
 
山王稲荷初蛭子 『尾張名所団扇絵』
 

境内の茶店

ヤマガラのお神籤

縁起物の露店

福笹




蛭子社 泥江縣神社へ遷座
 賑わった蛭子社だが、幕末頃に編纂された『尾張名所図会』には記載がない。実は勧請から40年後に伝馬橋の南西に鎮座する泥江縣神社(広井八幡)へ遷座してしまったからである。

◇氏子が少なく 蛭子社殿の修復ができない
 天保6年(1835)10月1日、遷座が行われた。
 『名陽見聞図会』はその理由を次のように記録している。
 「近年大破に及びたれ共、元来、稲荷の氏子少なくして、とかく修覆のおこたりしが、爰に、広井八幡の神主、此社の大破に及びしをうれい、則、此社を八幡の社境に遷し、修覆して守奉らん事を乞ふ。よつて、八幡の社境へ恵比須のやしろを、うつせしとぞ。」

◇趣向を凝らした 遷座の行列
 泥江縣神社の氏子たちが趣向を凝らした服装でお迎えに行った。社は分解して数10の車に積み、氏子たちを従えて本町通を北へ向かった。札の辻から伝馬橋の筋へ曲がり、御園通から袋町へ入って泥江縣神社行くルートだが、袋町の木戸で蛭子社の屋根が引っかかったので少し取り、神社へ着いたら門から入られないので塀を2間(3.6m)ほど壊して、そこから引き込んだという。

 同書に遷座した理由として、
「山王稲荷の神主家と泥江縣神社の神主家の間で最近縁組みの話があり、持参金の代わりに蛭子社を遷座したのだという噂が流れているが、これは間違いだ」と書いてある。
 『名古屋府城志』に山王稲荷の神主だった園崎氏が辞めたので、泥江縣神社の安井氏が神主となったと書かれており、そのような関係から泥江縣神社への遷座となったのであろう。

 場所は変わったが、蛭子社は今も泥江縣神社でつんぼ蛭子として祀られ人々に親しまれている。



遷座の行列  『名陽見聞図会』


現在の蛭子社
泥江縣神社




 2021/09/01