古渡町交差点の南西に、朱塗りの立派な社殿を構える稲荷神社が鎮座している。この神社は4代藩主の義通がここに遷座して造営し、かつては初蛭子の参詣で非常に賑わったところである。 |
4代藩主義通 造営 | 初蛭子の賑わい | 蛭子社 泥江縣神社へ遷座 |
蛭子社 泥江縣神社へ遷座 |
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賑わった蛭子社だが、幕末頃に編纂された『尾張名所図会』には記載がない。実は勧請から40年後に伝馬橋の南西に鎮座する泥江縣神社(広井八幡)へ遷座してしまったからである。 ◇氏子が少なく 蛭子社殿の修復ができない 天保6年(1835)10月1日、遷座が行われた。 『名陽見聞図会』はその理由を次のように記録している。 「近年大破に及びたれ共、元来、稲荷の氏子少なくして、とかく修覆のおこたりしが、爰に、広井八幡の神主、此社の大破に及びしをうれい、則、此社を八幡の社境に遷し、修覆して守奉らん事を乞ふ。よつて、八幡の社境へ恵比須のやしろを、うつせしとぞ。」 ◇趣向を凝らした 遷座の行列 泥江縣神社の氏子たちが趣向を凝らした服装でお迎えに行った。社は分解して数10の車に積み、氏子たちを従えて本町通を北へ向かった。札の辻から伝馬橋の筋へ曲がり、御園通から袋町へ入って泥江縣神社行くルートだが、袋町の木戸で蛭子社の屋根が引っかかったので少し取り、神社へ着いたら門から入られないので塀を2間(3.6m)ほど壊して、そこから引き込んだという。 同書に遷座した理由として、 「山王稲荷の神主家と泥江縣神社の神主家の間で最近縁組みの話があり、持参金の代わりに蛭子社を遷座したのだという噂が流れているが、これは間違いだ」と書いてある。 『名古屋府城志』に山王稲荷の神主だった園崎氏が辞めたので、泥江縣神社の安井氏が神主となったと書かれており、そのような関係から泥江縣神社への遷座となったのであろう。 場所は変わったが、蛭子社は今も泥江縣神社でつんぼ蛭子として祀られ人々に親しまれている。 |
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2021/09/01 |
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