秀吉枕返地蔵尊
白山神社
 桜橋の東に鎮座する白山神社は、元は今より南西にあり、泥江縣神社の祭礼では御旅所になっていた神社だ。秀吉が朝鮮出兵にあたり境内の大楠で船を造ろうとした時、夢枕に現れた童子のお告げで地蔵を造ったとの伝承が残されている。

    以前は桜通の南に鎮座   秀吉 神社の楠で地蔵菩薩



以前は桜通の南に鎮座
 桜橋を渡り、しばらく行くとビルにはさまれた神社がある。白山神社だ。元は、今の場所より南西の堀川に近い所に鎮座していたが、昭和12年(1937)の桜通の整備により境内は大幅に狭くなり、39年(1964)に現在地へ遷座した。

 昔は、泥江縣神社と一続きの境内だったが、名古屋開府により美濃街道(伝馬町筋)と町屋ができたことで分断されてしまった。かつては、泥江縣神社の祭礼の時に神輿が訪れた御旅所で、祭神は菊理姫命(くくりひめのみこと)である。
 本殿前の燈籠には延享3年(1746)の年号が刻まれている。ユニークなデザインの狛犬は、右手のものには「伊藤萬蔵」と裏面に掘られているがどうゆう訳かセメントで塗りつぶされている。


『名古屋市街全図』 昭和5年

『尾張名陽図会』

白山社へ到着した泥江縣神社の神輿
 『尾張年中行事絵抄』



秀吉 神社の楠で地蔵菩薩
 この神社には、こんな伝承がある。
 豊臣秀吉の時代の話だ。秀吉が領土的野心をもって、文禄元年(1592)加藤清正、小西行長を先鋒として15万余の兵を朝鮮に出兵した。その時に白山神社にある楠の大木で軍船を造ろうとした。ところが大木に人夫が斧を入れると、樹からは血がしたたり流れてきた。

 それに関して『尾張名陽図会』は、次のように紹介している。
 「そもそもこの枕返の地蔵尊と申し奉るは、人王百八代正親町(おほぎまち)の院の御宇永禄年中、関白秀吉公朝鮮征伐の時、当国広井白山権現の楠を以て軍船を作らんと欲し、工に命じければ、斧を下すにたちまち血潮流るること滝の如し。人々驚き怖しが、秀吉公この事を聞こし召し給ひいと心ならず臥し給ひけるに、その夜の夢に、一人の童子枕の元に立ちて告げて曰く、 
 汝、彼の木より、血出づることを怪み驚くこと勿れ。惣じて樹木千年を経る時は、自ら霊有ること昔よりその例一、二に非ず。これを推す時は身に災を招き、汝が願望成就しがたし。今その災をさけて、汝が願望を成就せんとなれば、この楠木を以て地蔵菩薩一体を刻み、二世安楽の勝因となさば、汝が望みをも成就せん。この事、夢々疑いをなしてゆるがせにすべからず。今汝が臥したる枕をかへし置くなり。これを夢の後の証となすべし、と告げ畢(おわ)りて、その長広大にして、光明諸共虚空をさして消え失せ給ふなり。
『尾張名陽図会』
 秀吉公、御告を有り難く思し召し御枕を見給ふに、果して御枕かへし有りければ、いよいよ感涙肝に銘じ、即日仏工へ仰せてこの地蔵尊一体をきざませ給ふ。これ当山九院の内、極楽院へ納め給ふなり。」

 『名古屋市史』によれば、秀吉は楠の大木を社司に寄付し、余材を以て地蔵菩薩一体を造り、それを広井村に極楽寺という一寺を建立して安置した。その像は、その後徳林寺に移ったという。

 ※正親町天皇は108代ではなく106代天皇。永禄年中(1558~70)は文禄年中(1592~6)の誤りか。永禄頃の秀吉は、信長の家来として墨俣一夜城建設などに活躍していた時代である。




 2022/02/04