秀吉 神社の楠で地蔵菩薩
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この神社には、こんな伝承がある。
豊臣秀吉の時代の話だ。秀吉が領土的野心をもって、文禄元年(1592)加藤清正、小西行長を先鋒として15万余の兵を朝鮮に出兵した。その時に白山神社にある楠の大木で軍船を造ろうとした。ところが大木に人夫が斧を入れると、樹からは血がしたたり流れてきた。
それに関して『尾張名陽図会』は、次のように紹介している。
「そもそもこの枕返の地蔵尊と申し奉るは、人王百八代正親町(おほぎまち)の院の御宇永禄年中、関白秀吉公朝鮮征伐の時、当国広井白山権現の楠を以て軍船を作らんと欲し、工に命じければ、斧を下すにたちまち血潮流るること滝の如し。人々驚き怖しが、秀吉公この事を聞こし召し給ひいと心ならず臥し給ひけるに、その夜の夢に、一人の童子枕の元に立ちて告げて曰く、 |
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汝、彼の木より、血出づることを怪み驚くこと勿れ。惣じて樹木千年を経る時は、自ら霊有ること昔よりその例一、二に非ず。これを推す時は身に災を招き、汝が願望成就しがたし。今その災をさけて、汝が願望を成就せんとなれば、この楠木を以て地蔵菩薩一体を刻み、二世安楽の勝因となさば、汝が望みをも成就せん。この事、夢々疑いをなしてゆるがせにすべからず。今汝が臥したる枕をかへし置くなり。これを夢の後の証となすべし、と告げ畢(おわ)りて、その長広大にして、光明諸共虚空をさして消え失せ給ふなり。 |
『尾張名陽図会』
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秀吉公、御告を有り難く思し召し御枕を見給ふに、果して御枕かへし有りければ、いよいよ感涙肝に銘じ、即日仏工へ仰せてこの地蔵尊一体をきざませ給ふ。これ当山九院の内、極楽院へ納め給ふなり。」
『名古屋市史』によれば、秀吉は楠の大木を社司に寄付し、余材を以て地蔵菩薩一体を造り、それを広井村に極楽寺という一寺を建立して安置した。その像は、その後徳林寺に移ったという。
※正親町天皇は108代ではなく106代天皇。永禄年中(1558~70)は文禄年中(1592~6)の誤りか。永禄頃の秀吉は、信長の家来として墨俣一夜城建設などに活躍していた時代である。
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