名古屋最初の近代紡績工場
『尾張名所図絵』 明治23年
名古屋紡績会社
 伊勢山中学校がある一帯は、かつて名古屋で最初の大規模な近代紡績会社である名古屋紡績会社があった場所である。煙突から吐き出す黒煙は、発展する産業都市名古屋を象徴するとともに公害問題も引き起こし、人々の雇用を生み出すとともに児童労働の問題も内包していた。


    名古屋紡績会社 誕生   濃尾地震と再興   近代産業の影
    三重紡績に併合    



名古屋紡績会社 誕生
  ◇明治13年……岡崎に官営紡績工場
 開国により綿製品の輸入が増えていった。この地方は江戸時代から綿の栽培が盛んな土地であるが、糸に紡ぎ布に織るのは全て手作業なので品質や生産性で舶来品には勝てない。
 近代的な繊維産業を興すため、官営紡績工場が2か所に造られた。愛知県額田郡太平村(現:岡崎市)の工場が明治13年(1880)10月に稼働し始めており、広島県にも設けられて、18年(1885)に民間へ払い下げられている。

◇明治18年……大規模な名古屋紡績会社 創業
 官営工場より一足遅れて、名古屋でも民営の紡績業が始まった。名古屋紡績会社である。
 中心になったのは村松彦七。東京出身で、小野組名古屋支店の支配人となり、その後名古屋七宝会社の社員になっていた人である。伊藤次郎左衞門や岡谷惣助など藩政時代から続く城下の富豪たちに呼びかけて設立準備を始めた。
 当初は、今の江南市で水車紡績の工場を検討していたが、名古屋区正木町(現:伊勢山中学校と周辺)に蒸気機関を動力とする工場を創る事になった。

 資本金は、34,700円。当時の標準的な工場の倍である4,000錘の英国製紡績機を設置した。
 明治18年(1885)3月31日に開業式を行い、翌日から稼働し始めている。



『名古屋明細地図』
明治19年
◇明治21年……順調に発展 第2工場増設
 事業は順調に進み、21年(1888)6月には第2工場を増設するまでになった。
 この頃の伝習生も含めた職工数は女工188人・男工67人で、操業時間は当初1日15時間であったが、20年からは24時間になった。
 なお、この時代は失業士族の救済が問題となっており、工員は原則として士族から、少なくとも士族の紹介があるものを採用していた。
 この間、20年(1887)には奥田正香や瀧定助など近郊の豪商などにより尾張紡績が創られ、現在の瓶屋橋東南で22年(1889)から操業を始めている。



濃尾地震と再興
◇濃尾地震で被害
 明治24年(1891)10月28日、この地方を大災害が襲った。濃尾地震である。1.2㎞南の尾張紡績は大きな損害を被ったが、名古屋紡績はそれに比べると軽微であった。
 『濃尾震誌』によると、綛繰(かせくり)場100坪、大工と鍛冶の小屋それぞれ1棟、煙突2本が崩壊し、機械は1割ほどが損傷、役員・職工とも死傷者はなかった。

◇規模の拡大と競合会社の増加
 震災から立ち直った名古屋紡績は規模を拡大して行く。
 競合する会社も増えて行く。25年(1892)には三重紡績が下広井町(現:名駅南二)に愛知分工場を設けている。
 名古屋紡績も26年(1893)には資本金を50万円に増やし、工場の改築、新しい機械の導入を始めている。
 朝鮮や中国への輸出も行われ、景気の波はあるものの順調に事業は拡大し、31年(1898)には100万円に増資して設備の増強をした。


近代産業の影
◇煤煙公害発生
 明治29年(1896)には公害問題が発生した。
 設備は石炭を燃料とする蒸気機関で動いている。昼夜を分かたず石炭が焚かれ、煙突からはもくもくと煙を吐き出し煤をまき散らす。近所の人々の生活と健康に大きな被害を与えた。「衣食を害し、はなはだしきは目口を開くあたわざるほどのこと度々」であった。
 会社に抗議する人もいたが、名古屋有数の大会社が相手なのでものが言えない人も多い。町内の役員たちは氏神である闇森八幡社の社殿改修費用の寄付を会社に要請したが、会社が値切ったので不穏な空気になったとも伝えられている。

◇工員の17%……14歳未満
 また、未就学の職工の問題も抱えていた。30年には904人の職工が働いていたが、その内14歳未満が152人おり、中には11歳未満の者もいた。今の小学生から中学生の年だ。そのうち105人は文字が読めなかった。
 交代勤務のため、午前と午後の2回 7~9時の間に読書・作文などの授業が行われるようになった。

 現在、国際労働機関(ILO)は17歳未満、ユニセフは14歳未満の労働を児童労働として問題視しているが、この時代の日本では多くの児童が働いていたのである。



三重紡績に併合
◇明治33年頃~……経営不振
 明治33年(1900)頃から経営に陰りが見え始めた。
 この年は義和団の乱により中国への輸出が途絶、翌年はアメリカ・インドの原綿が下落したが前年からの在庫綿を大量に持っていたため損失が発生するなどしている。35年(1902)には少し回復し、3万錘が昼夜稼働するようになったものの50万円に減資した。

◇明治38年……三重紡績に併合
 この頃、綿糸は重要な輸出品になっていたが、中小の工場が乱立し国際競争力では問題があった。
 38年(1905)になると合併の気運が高まり、7月1日から名古屋紡績・尾張紡績は一切の営業を25年(1892)から下広井町に愛知分工場を設けていた三重紡績にゆだねることになり、その後吸収され名古屋分工場・尾張分工場になって名古屋紡績の名は消えていった。


『名古屋現勢地図』
明治43年
 今は伊勢山中学校が建つ場所は、名古屋が城下町から産業都市へと脱皮する過程で、早い時期に近代的な繊維産業が興された場所だ。名古屋の商人たちが自分たちの力で会社を立ち上げ、濃尾地震の被害を乗り越えて事業を確立し、産業都市名古屋の礎をつくった。
 今この場所では屈託のない中学生たちの声が響いているが、かつては同じ年頃の子どもたちがここで働いて暮らしや産業を支えていた事を私たちは忘れてはならない。




 2021/07/26