登録有形文化財
   
   納屋橋の北東にたたずむ レトロなビル。今はきれいに改修され、地下は「堀川ギャラリー」、1~3階はタイ料理店が営業している.

 納屋橋とあいまってこの地域のレトロで風格ある景観を形づくっているこのビル、以前は赤錆びたサッシやシャッター、傷ついた外壁が道行く人の目をひき、永い歴史の重みと風雪に耐えてきた事を示していた。
 気になるこのビルは、昭和6年(1931)に建てられた加藤商会の本社ビルである。90年の歴史をどのように歩んできたのであろうか。

    外米を扱う商社 加藤商会   加藤商会ビルの建築   なぜ 納屋橋に?
    年 表   改修前の姿  



外米を扱う商社 加藤商会
   (株)加藤商会‥‥もう今ではなくなってしまったが、かつては名古屋港を出入りする外米の8割を扱っていたといわれる商社である。
 加藤商会の歴史は、創業者の加藤勝太郎氏の歴史そのものだ。
 加藤氏は明治18年(1885)に愛知県中島郡で生まれ、名古屋商業学校(略称:CA)を卒業した。兵役を終えた21歳のとき貿易商を志して単身香港に渡り、最初は柱時計などの輸出を手がけ、苦労の末に成功して帰国した。
 外米の取扱ではこの地方一の商社になり、加藤商会の社長のほかに、東郊住宅や名古屋ゴルフ倶楽部などの取締役、シャム国(現在のタイ)の名誉領事や名古屋貿易会の初代会長などの要職を多数兼務し、名古屋財界で重要な地位を占めていた。

 加藤氏は昭和28年(1953)に逝去され、加藤商会も平成6年(1994)に解散された。


加藤商会ビルの建築
    事業に成功した加藤氏は、納屋橋のたもとに土地を購入、本社ビルを建築した。
 最初に建てたのは大正5年(1916)。レンガ造りの地上3階地下1階建のビルである。デザインは現在残っているビルとあまり変わらない。
 このレンガ造りのビルはわずか15年で取り壊され、現在の鉄筋コンクリートのビルに建て替えられた。たぶん大正12年(1923)の関東大震災で、レンガ造りは地震に弱いことがわかり建て替えることにしたのであろう。
 
 
レンガ造りだった頃のビル
 現在のビルは昭和6年(1931)に完成し、以後90年にわたり、堀川と広小路の変遷を見つめてきた。

 このビルはテラコッタ(柱頭飾)や外壁のレンガ調タイル・レリーフ模様など、大正から昭和初期の近代建築の特徴をよく残しており、平成13年(2001)に国の登録有形文化財になった。

☆登録文化財とは
 指定文化財ほど制約がなく、内部を活用しながら外観を保存できる制度である。外観は4分の3以上を保存すれば良く、内部は全面的に改修することも可能。設備の老朽化などで取り壊される建物の保存や町の景観維持に役立つ制度である。
   加藤商会ビルの概要
 竣  工:昭和6年(1931)
 構  造:鉄筋コンクリート
      陸屋根
      地上3階 地下1階
 延床面積:319.31㎡
      (96.8坪)
 所 在 地:名古屋市中区
      錦一丁目15番17号



なぜ 納屋橋の地に
   加藤氏は、栄や名古屋駅ではなく、なぜ堀川ばた納屋橋の地を選んで本社ビルを建てたのであろうか?
 駅から少し離れていて交通の便が劣り、片側は道路でなく川に面していて地価が安かったから?
 いや、全くその逆である。ここは、当時の一等地。加藤商会が業務をする上で一番条件の揃ったところだったからである。

 当時の様子を見てみよう。
 この頃、自動車は日本中でも約5,000台[大正8年(1919)]しかなかった。 当然、交通や輸送は主に徒歩や大八車、馬車、船、鉄道などである。
 
 
鉄道の便
 当時の名古屋駅は今の笹島交差点の近くにあり、納屋橋からまっすぐ西に向って670m、歩いても8分で行ける。ここからは、東海道本線、中央本線、関西本線が利用できた。
 また当時は、柳橋の交差点は交通のターミナルであった。ここに名古屋電気鉄道の始発駅があり、犬山や一宮、津島に向かう電車がでていた。
 路面電車の便も良い。柳橋から南に向かっては、築地、稲永に通じる電車もある。納屋橋は大正2年にモダンなアーチ橋に架け替えられたばかり。その上を通る電車は栄を経て覚王山へと通じていた。
 このあたりは名古屋でも鉄道の便が非常に良い場所であった。
   水運の便
 加藤商会は外米を扱う商社だ。名古屋港に入港した船に積まれている米の検品や陸揚げ手続など、港に行く機会も多かったであろう。
 堀川は納屋橋と名古屋港を直線で結んでいる。加藤商会ビルはこの堀川に面して建っており、地下室の扉をあければそこは堀川。船に乗れば名古屋港まで最短距離で行くことができる。

 右の地図を見ると、この場所は当時一番交通の便が良い土地で、加藤商会は便利なこの地を選んで本社を構えたことがわかる。

 
『大名古屋市全図』
大正11年 



年    表
   
西 暦 和 暦 加藤勝太郎氏と加藤商会の経歴 社会の様子
1885年 明治18年 愛知県中島郡大里村で加藤周三郎の長男として生まれる。
1889年 明治22年

東海道本線が全通
広小路の栄~名古屋停車場で馬車道が指定される

1891年 明治24年 堀川筋取締規則制定(300石以上の舟は納屋橋より上流への運行は不可)
1894年 明治27年 日清戦争が始まる(~1895年)
中央線が名古屋へ乗り入れ
1895年 明治28年 関西本線が名古屋へ乗り入れ
1898年 明治31年 名古屋電気鉄道の笹島~県庁前(現在の中区役所北東)開通
1901年 明治34年 名古屋電気鉄道の柳橋~志摩町 開通。この後、順次犬山、一宮方面に延長される
1902年 明治35年 名古屋市立商業学校卒業。
1904年 明治37年 日露戦争が始まる(~1905年)
1906年 明治39年 軍隊を除隊後、香港へ渡る
後に東勝洋行を起こす。
1907年 明治40年 名古屋港が開港場に指定される
1910年 明治43年

新堀川完成

1911年 明治44年 香港から帰国

瀬戸電気鉄道が完成。堀川の舟運と瀬戸までの陸運がつながる
中央線が全通

1912 大正元年 名古屋電気鉄道の柳橋~犬山、西印田 開通
1913年 大正2年 神戸に支店設置。 結婚
シンガポール、東京に支店設置
納屋橋架け替え工事が完成
1914年 大正3年 第一次世界大戦が始まる(~1918)
1916年 大正5年 納屋橋に本店社屋新築(旧ビル、レンガ造り)に着手
1918年 大正7年 旧社屋竣功
外米管理令による指定商に任命(伊勢湾へ入る外米の8割は加藤商会扱いといわれた)
1921年 大正10年 株式会社加藤商会を組織
欧米各国歴訪に出発
1922年 大正11年 外遊から帰国
1923年 大正12年 名古屋電鉄 一宮線、犬山線に急行電車の運転を開始
1924年 大正13年 堀川を経由し、犬山と名古屋の舟運をしていた愛船株式会社の運航廃止
1927年 昭和2年 堀川改修工事に着手(朝日橋~大瀬子橋)
1929年 昭和4年 米穀調査会委員に任命
1930年 昭和5年 政府所有米海外輸出指定商に任命 中川運河の使用開始(本線、北支線のみ)
1931年 昭和6年 新社屋(現在のビル) 竣功 満州事変が発生
1932年 昭和7年 米騒動発生
中川運河全通
(松重閘門経由で堀川と通航できるようになる)
1935年 昭和10年 名古屋駐在シャム国名誉領事に任命され、加藤商会ビルはシャム国領事館になる
1937年 昭和12年 芦溝橋事件が発生(日華事変始まる)
堀川改修工事(朝日橋~名古屋港)完了
1945年 昭和20年 第二次世界大戦が終わる
1947年 昭和22年 名古屋貿易会初代会長に就任
後、日本貿易会会長へ転出
1952年 昭和27年 サンフランシスコ平和条約発効
1953年 昭和28年 加藤勝太郎氏逝去
1957年 昭和32年 加藤家から株式会社加藤商会へ当該ビル売却
1967年 昭和42年 加藤商会が当該ビルを中埜産業へ売却。中埜産業は名古屋支店として利用
1968年 昭和43年 中川運河の松重閘門を閉鎖
1971年 昭和46年 倉庫に転用
1982年 昭和57年 ビル全体を広告塔に使用
1992年 平成4年 堀川総合整備事業が本格着工
1994年 平成6年 ㈱加藤商会解散
2000年 平成12年 名古屋市が寄付を受ける。 広告撤去
2001年 平成13年 国の登録文化財に指定
2004年 平成16年 再利用に向け、名古屋市が大改修を始める
2005年 平成17年 地  下:「堀川ギャラリー」
1~3階:タイ料理店   オープン(1月22日)
   
   


改修前の姿
   
地下室を出ると堀川の岸辺
 
冠のような
正面のファサード
 
柱頭飾がこの時代の特徴
 
どっしりとした
石張りの外壁と装飾
   
ビルでも窓に
シャッターが付いていることが、
この時代の建築に多い
   
ドアの枠にも上部に装飾
 
正面の部屋はアーチ状
   
天井には漆喰でレリーフ
     


 2005/07・2021/02/07 改訂